(2025・6.1 Holy See)
教皇レオ14世は1日、聖ペトロ広場で復活節第7主日、家族・子供・祖父母の聖年の日のミサを捧げられ、ミサ中の説教で次のようにお話しになった。(日本では、1日は「主の昇天」の祝日になっている。この祝日は本来、主の復活から40日目の木曜に祝われるもので、欧米などでは1日は復活節第7主日。だが、キリスト教国でない日本のような国では、復活節第7主日、今年は6月1日に祝われるので、このような形になっている)。Holy See 発表の説教の全文以下の通り。
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*キリストは「皆、一つになるように」と祈っておられる
私たちが今聞いたヨハネの福音書には、最後の晩餐の席で、私たちに代わって祈るイエスの姿が描かれています(17章20節参照)。人となられた神の言葉は、地上の生涯の終わりに近づくにつれて、私たち、兄弟姉妹のことを思い、祝福となり、聖霊の力によって、父なる神への願いと賛美の祈りとなります。驚きと信頼に満ちた私たち自身がイエスの祈りに入るとき、私たちはイエスの愛のおかげで、全人類に関わる偉大な計画の一部となるのです。
キリストは、私たちが「皆、一つになるように」(21節)と祈っておられます。なぜなら、この普遍的な一致は、被造物の間に、神ご自身である永遠の愛の交わりをもたらすからです。
主は、この一致の中で、私たちが「名もなく、顔もない群衆」になることを望んでおられません。主は私たちが一つになることを望んでおられます— 「父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください」(21節)と。イエスが祈られる一致とは、神が愛されるのと同じ愛に根ざした交わりであり、この世に命と救いをもたらすものです。それゆえ、それは第一に、イエスがもたらすために来られた「賜物」です。
神の御子は、その人間としての心から、御父にこうお祈りになります— 「あなたが私をお遣わしになったこと、また、私を愛されたように、彼らを愛されたことを、世が知るようになります」(23節)と。
この言葉に驚きをもって耳を傾けましょう。イエスは、神がご自分を愛しておられるように、私たちをも愛しておられる、と語っておられるのです。御父は、その独り子を愛するほどには、私たちを愛しておられないということはありません。無限の愛をもって愛しておられます。神は初めから、私たちを愛しておられるのです!
キリスト御自身が、御父に向かってこう言っておられます― 「(あなたは、)天地創造の前から私を愛して(くださった)」(24節)と。神はその憐れみにおいて、すべての人をご自身のもとに引き寄せたい、と常に願っておられます。私たちを一つにし、互いに結び合わせるのは、キリストにおいて私たちに授けられた神の命なのです。
*「家族、子ども、祖父母、高齢者のための聖年」の日に
「家族、子ども、祖父母、高齢者のための聖年」である今日、この福音に耳を傾けることは、私たちを喜びで満たします。
親愛なる友人の皆さん、私たちは望む前に命をいただいています。教皇フランシスコはこう述べておられます― 「私たちは皆、息子であり娘ですが、誰一人として、生まれることを(自分で)選んだ者はいません」(2025年1月1日の正午の祈りの説教で)。それだけではありません。生まれてすぐに、私たちは生きるために他者を必要としました。誰かが、私たちの肉体と精神を世話することで、私たちを救ってくれました。私たちは皆、人間的な優しさと互いを思いやる、自由で解放的な関係のおかげで今、生きているのです。
その人間的な優しさは、時として裏切られます。例えば、自由が、命を与えるためではなく、奪うため、助けるためではなく、傷つけるために使われることがあります。しかし、命に反対し、命を奪う悪を前にしても、イエスは私たちのために、御父に祈り続けられます。イエスの祈りは、私たちの傷を癒し、赦しと和解を私たちに語りかけます。
その祈りは、親として、祖父母として、息子や娘として、互いへの愛の経験を十分に意味のあるものにしてくれます。それは、主が私たちに「一つ」であることを望んでおられるように、私たちも、家族の中で、そして私たちが住み、働き、学ぶ場所で、「一つ」であるために、ここにいるのです。違うけれども一つ、たくさんいるけれども一つ、いつも、どのような状況でも、人生のどのような段階でも、です。
親愛なる友人の皆さん、もし私たちがこのように互いに愛し合い、「アルファでありオメガである」「初めであり終わりである」(ヨハネの黙示録22章13節参照)キリストに根ざすなら、私たちは社会と世界のすべての人にとって平和のしるしとなるでしょう。忘れてはならないのは、「家庭は、人類の未来の揺りかご」だということです。
ここ数十年、私たちは喜びに満たされると同時に考えさせられる兆候を受け取っています。それは、何人もの配偶者が、別々にではなく、夫婦として列福され、列聖されたという事実です。私は、幼きイエスの聖テレジアの両親であるルイ・マルタンとゼリー・マルタン、そして前世紀にローマで家庭を築いた福者ルイジとマリア・ベルトラーメ・クアトロッキを思い浮かべます。そして、ポーランドのウルマ一家を忘れてはなりません。彼らは愛と殉教で結ばれた親子です。私は、「これは私たちに考えさせるしるしだ」と言ました。
*親たちに、子供たちに、そして祖父母、高齢者の皆さんに
彼らを「結婚生活の模範的な証人」として指し示すことによって、教会は、神の愛を知り、受け入れるために、また、その一致と和解の力のおかげで、人間関係と社会を崩壊させる力を打ち負かすために、今日の世界は結婚の契約を必要としているのだ、と教えています。
だからこそ私は、感謝と希望に満ちた心で、「結婚とは、理想ではなく、男女の真の愛の尺度」であることを、すべての夫婦に思い起こさせたい。この愛が、あなた方を一つの肉体とし、神の似姿であるあなた方が生命の賜物を授けることを可能にするのです。
私は、あなた方が子供たちの誠実さの模範となり、子供たちに望むように行動し、従順を通して子供たちに自由を教育し、常に子供たちの中に善を見い出し、それを育む方法を見つけるよう勧めます。
そして親愛なる子供たちよ、両親に感謝の気持ちを示すのだ。命の賜物と、それに伴うすべてのものに対して、毎日、「ありがとう」と言うことは、父と母を敬う最初の方法です(出エジプト記20章12節参照)。
最後に、親愛なる祖父母や高齢者の皆さん、知恵と憐れみをもって、また年齢から来る謙遜さと忍耐をもって、愛する人を見守ることをお勧めします。家族の中で、信仰は、命とともに代々、受け継がれていきます。それは、家族の食卓に並ぶ食べ物のように、また心の中の愛のように分かち合われます。そのようにして、家族は、私たちを愛し、私たちの善を常に望んでおられるイエスと出会う、特権的な場となるのです。
最後にもうひとつ付け加えましょう。私たちの旅路に希望を与えてくれる神の子の祈りは、いつの日か私たちが皆、「uno unum(”キリストにおいて”一つ)」(聖アウグスティヌス『詩篇127篇』参照)となることを思い起させてくれます。私たちだけでなく、私たちの父、母、祖母、祖父、兄弟、姉妹、そして子供たちも、すでに私たちよりも先に永遠のキリストの祝祭の光の中に旅立ち、その存在をこの祝いの瞬間に私たちとともに感じるのです。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)