(2024.11.1 バチカン放送)
教会の典礼暦で「諸聖人」の祭日を迎えた11月1日、教皇フランシスコはバチカンで正午の祈りを巡礼者と共に唱えられた。 そして、祈りの前に、教皇は、この日の福音朗読箇所、イエスが「真福八端」(マタイ福音書5章1-12a説)の教えを述べる場面を取り上げて、説教をなさった。
教皇の説教の要旨は次のとおり。
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諸聖人の祭日を迎えた今日、福音書(マタイ 5章1-12節参照)の中で、イエスは、キリスト者の身分証明書であり、聖性への道である「真福八端」を宣言されています。その中でイエスは、ご自身が人となられることで歩まれた道を、私たちにとって神の贈り物であると同時に、私たちの応答でもある愛の道を示されます。
この聖性への道が神の贈り物であるのは、聖パウロが言うように、私たちを聖なる者としてくださるのは神だからです(コリントの信徒への手紙1・6章11節参照)。それゆえ、私たちは、聖なる者にしてくださるよう、私たちの心を主の御心に似たものにしてくださるようにと、何よりも主にお願いするのです。
主がその恵みによって私たちを癒され、愛してくださったように、主は、私たちが愛することを妨げるすべてのものから解放してくださいます(ヨハネ福音書13章34節参照)。こうして、福者カルロ・アクティスの言葉にあるように、私たちの中で、常に「神に場所を譲るために、自分が少なくなっていく」のです。
そして、これが、二つ目の点、私たちの応答へとつながっていきます。天の御父は、ご自身の聖性を私たちに差し出されながらも、それを押し付けることは、なさいません。主は私たちに聖性の種を蒔かれ、そのすばらしさを見せ、味わわせつつも、私たちの「はい」という返事を待ち、尊重されます。
主は私たちに、ご自身が与えられる良い霊感に従う自由、主のご計画に加わる自由、主のお気持ちを自分のものにする自由を与えてくださいます。主は、すべての人、全世界に向けて開かれた、より普遍的な愛をもって、他者に仕えることを私たちに教え、それを可能にしてくださるのです。
私たちは、聖人たちの生涯の中に、今日においても、これらすべてを見出すことができます。例えば、聖マクシミリアン・コルベは、アウシュビッツで、死刑を宣告された一人の父親の身代わりになることを申し出ました。コルカタの聖テレサは、最も貧しい人々に奉仕するために生涯を捧げました。聖オスカル・ロメロ司教は、横暴な者たちの権力の濫用から、最も貧しい人々の権利を守ったために、祭壇で殺されました。
このほかにも、私たちが祭壇で崇敬する聖人や、私たちが毎日を共にしている「身近な」聖人など、多くの聖人たちの中に、真福八端の精神によって形作られた、貧しく、柔和で、憐れみ深く、義に飢え渇く、平和を実現する兄弟姉妹たちを認めることができます。彼らは「神に満たされた」人々、隣人の必要に無関心でいられない人々、光り輝く道の証し人です。そして、そうすることは、私たちにも可能なのです。
ここで自分に問いかけてみましょう。祈りの中で、私は神に聖なる人生の賜物を願っているだろうか? 主の霊が私の中にかき立てる、善なる衝動に従っているだろうか? 自分の生活環境の中で、福音の「真福八端」の実践に進んで努力しているだろうか?
諸聖人の女王、マリアよ、私たちの人生が聖性の道となるよう、どうかお助けください。
(編集「カトリック・あい」)