
*神の言葉はすべての人のために
さらに、福音宣教の使命を果たされようとするイエスは「常に場所を移し、旅人であり、巡礼者であり、町や村を訪れ、人々に会い、人々を癒しておられます」とされ、「そのイエスの足は、神の愛の福音を告げ知らせる使者の足です」と指摘。
また、「イエスが宣教を始められたガリラヤ湖畔の地域は、伝統的に人々の文化の交差点でした。このことは、イエスが神の言葉をイスラエルの人々に限定せず、すべての人に宣べ伝えるために、いかに”境界を広げ”ようとしたかを示しています」とされ、「イエスは、社会の片隅に置かれた人々に手を差し伸べたい、病人を癒したい、罪人を救いたい、失われた羊を集め、心が疲れ、抑圧されている人々を立ち上がらせたい、と希望されています。『神の憐れみは、すべての人に向けられている』と告げておられるのです。忘れてはなりません。神の憐れみは、すべての人の上にあるのです」と強調された。
*私たちの最優先事項は神の言葉を伝えること
続けて教皇は、「神の言葉が、『すべての人に宛てられた贈り物』であるなら、それをイエスがなさったと同じように、私たち信者も”最優先事項”とせねばなりません。 そして、私たちの宣教は、すべての人に対して開かれた”広い心”をもって行われ、”閉じた心”を持った教会としての宣教が決してされないように」と注意され、「神の言葉を福音宣教の中心に置き、”境界”を広げ、人々に心を開き、主との出会いの経験を育むことを、イエスから学びましょう。神の言葉は、抽象的なあるいは静的な公式に包み込まれてはおらず、人と出来事、言葉と行動、発展と緊張からなる歴史の中で躍動する力を持っていることに気付きましょう」と信者たちに求められた。
*神の言葉は私たちを回心させる
教皇はまた、「神の言葉は、回心するように、生き方を変えるように、すべての人に呼び掛け、その生命と勇気を与えるメッセージを聞いた後では、その場にとどまることができなくなるようなもの」とされたうえで、「御言葉は、私たちを危機に落とすことさえあり得ますが、悪徳と罪の内なる闇と私たちが戦わねばならない時に、神の善の光を見るのを助け、人生の中にそのための場を作るのを助けます。御言葉は、私たちに入るとき、私たちの心と思いを変えます。私たちを変え、私たちの人生を主に向けるように導きます… ここにイエスの招きがあるのです。神はあなたのそばに来られます。神の存在を認識し、神の言葉のために場所を空けてください。そうすれば、人生観が変わります」と説かれた。
*私たちは神の言葉を証しするよう召されている
説教の最後に、教皇は「私たちは、私たちを布告者にする神の言葉を証しするように召されています。 イエスはガリラヤ湖の岸辺で、シモンとアンデレを弟子とし、『人間をとる漁師』とされました。同じように、私たちもまた、福音の喜びを宣べ伝える中で私たちの兄弟姉妹と出会うように呼ばれています」とされ、「これが御言葉の”強い力”ですー御父の愛の”網”に私たちを引き込み、自分たちが出会うすべての人を”王国の舟”に連れて行きたい、という抑えきれない欲求に突き動かされた私たちを使徒にするのです」と強調。
「御言葉を宣べ伝えることは、私たちが日常生活の中で互いをどのように扱い、気遣うかについて証しをすることを意味し、私たちが誰であり、何をするかについてそれを具体化することを意味します… それが私たちの使命です。『離れて行った人、抑圧された人、落胆した人たちを探す人』になることです。御言葉には、慰め、人生を変える神の破壊的な宣言、神が私たちの父であり、私たち一人一人に話しかけてくださることを知る喜び、『兄弟姉妹に皆さん、神があなたがたのそばに来られましたました。聞いてください。そうすれば、神の言葉の中に驚くべき贈り物があることに気付くでしょう』と語ることの素晴らしさ、があります」と語られた。
*神の言葉を宣べ伝えるすべての人に感謝