☩「神の喜びと愛を十分に体験する旅には、邪魔な荷物を持たないこと」教皇、年間第15主日の正午の祈りで

(2024.7.14 Vatican News  Deborah Castellano Lubov)
   教皇フランシスコは14日、年間第15主日の正午の祈りに先立つ説教で、「必要な物だけを持ってキリストに近づくように」と信者たちに呼びかけられ、「神の喜びと愛を十分に体験するには、私たち荷を重くし旅の邪魔になるだけの物を手放す必要があります」と説かれた。
 説教で教皇はこの日のミサで読まれたマルコ福音書の箇所(6章7~13節「12人の弟子の派遣」)を取り上げられた。ここで、イエスは、弟子たちを福音宣教に派遣するにあたって、杖一本のほかは何も持たず、履物ははき、下着は一枚だけにするよう告げておられる。

教皇の説教の要旨は次のとおり(バチカン放送)

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今日の福音は、イエスがご自分の弟子たちを宣教に遣わされた時のことを語っています。イエスは弟子たちを二人ずつ組にして遣わされ、そして、必要な物以外は持っていかないように命じられました。

一緒に派遣され、必要な物だけを身に付けた、この弟子たちの姿を考えてみましょう。

福音は一人では告げるものではなく、共同体として共に告げるものです。そうするためには、節制が大切です。それは、物の使用における簡素さ、財・能力・才能の分かち合い、贅沢を慎むことなどであす。なぜそうすべきなのでしょう。それは自由であるため、皆が尊厳ある生活をし、活発に宣教に貢献できるように、必要なものを持てるようにするためです。

さらに、先入観や頑なさを捨て、考えや感情において節度を保つことが必要です。これらは無用に重い鞄のように、歩みを困難にし、妨げます。これに対し、検討や傾聴は、証しをより効果的なものもします。

家族や共同体の中で、たとえそれがわずかでも、神の助けによって、私たちが必要において満たされ、前に進み、皆が調和し、あるものを分かち合い、各自が何かを断念し、互いに支え合うなら、そこで何が起きるかを考えてみましょう( 使徒言行録4章32-35節)。言葉で表す以前に、すでに一つの福音宣教となります。なぜなら、それは日常の生活を通して、イエスのメッセージの素晴らしさを具現化しているからです。

そのように暮らす家族や共同体は、実際、自分たちの周りに愛にあふれた環境を生み出します。そこでは、信仰と福音に心を開くことが容易になります。そして、そこからは、よりよい形で、またより安心して再出発することができるのです。

これに対し、それぞれが自分勝手に振る舞い、物質的なことだけにこだわり、相手の話に耳を傾けず、自己中心主義と妬みが勝るなら、雰囲気は重苦しく、生活は難しくなり、出会いは喜びではなく、不安と悲しみと失望の機会に変わってしまうでしょう。

キリスト教的生活にとって、交わりと節度は重要な価値があります。あらゆるレベルで宣教的な教会のために不可欠な価値です。

では、ここで自分に問いかけてみましょう。「私は、福音を伝え、主との出会いから来る喜びと光を生活の場にもたらす味わいを感じているだろうか」「そうするために、開いた精神と寛大な心をもって、他の人々と考えや能力を分かち合いながら、彼らと共に歩む努力をしているだろうか」「節度ある生活スタイルを育み、兄弟たちの必要に配慮しているだろうか」。

使徒の女王、マリアよ、私たちが交わりと節度ある生活を通して、真のイエスの弟子、宣教者となれるようお助けください。

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

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2024年7月14日