(2024.7.7 バチカン放送)
教皇フランシスコは7日、イタリアのカトリック教会「社会週間」閉会行事出席のため訪問されたトリエステでミサを捧げられ、地元トリエステ教区とヴェネト州、オーストリア、クロアチア、スロベニアなど近隣国から参加した約8500人の信者を前に、「社会の”傷”に指を入れ、人類の未来を問いかける信仰が求められている」と訴えられた。
ミサの説教で教皇は、この日読まれたマルコ福音書の箇所、ナザレに帰られたイエスが故郷の人々から受け入れられなかったエピソード(6章1-6節)を取り上げられた。故郷ナザレに戻られたイエスは、旧知の間柄の人々から認められないどころか、拒絶すらされてしまった。
「人々がイエスにつまずいたのは、何故でしょう?」と問いかけられた教皇は、「それはまさに、イエスが人間であり、大工ヨセフの息子だったので、『万能の神が一人のか弱い人間として姿を現されるわけがない』と人々が考えたからです」とされた。
そして、「人となられた神、人類に向かって身をかがめ、その世話をし、私たちの傷に心を動かされ、疲れを分かち合い、パンを割いてくださる神。そのことが、人々にとって、つまずきの石となりました。自分に味方をし、何でも満足させてくれる力ある神は魅力的ですが、愛のために十字架上で死を遂げる神、あらゆるエゴイズムに打ち勝ち、世の救いのために命を捧げるように自分にも命ずる神は、”不都合な神”のです」と指摘された。
そのうえで教皇は、「主イエスの御前に立ち、『社会週間』において議論された多くの社会的、政治的問題や、人々の具体的な生活の苦労を考えながら言えるのは、『このつまずきとなる信仰こそ、今日の私たちに必要だ』ということです」とされ、「人となられ、人間の歴史と生活の中に入って行かれる神への信仰、新しい世界の希望のパン種となる信仰、眠りかけた意識を呼び覚まし、社会の傷に指を入れ、人類の未来を問いかけさせる信仰が、今、求められているのです」と説かれた。
さらに、「私たちは、沢山の小さなことに不必要なほど驚きます。では、どうして、社会に広がる悪や、侮辱された命、労働問題、移民や受刑者の苦しみには、驚きもせず、無関心なのでしょうか」と問いかけられ、「人と文化が交差する、この国境の都市トリエステから、平和と兄弟愛に基づく新しい文明を築いていきましょう」と呼びかけられた。
(編集「カトリック・あい」)