☩「真の信徒の生きざまが、キリストを証しする」復活節第五主日に

Pope Francis during the Regina Coeli in St. Peter's SquarePope Francis during the Regina Coeli in St. Peter’s Square  (Vatican Media)

(2021.5.2 Vatican News  Linda Bordoni)

   教皇フランシスコは2日、復活節第五主日の正午に祈りの説教で、「キリストを証しするために、私たちは日々の行いの中で、主において互いに結び合い、主にとどまる必要がある」と訴えられた。

*ぶどうの木が実をつけるためには…

 説教で教皇は、この日のミサで読まれたヨハネによる福音書(15章1-8節)を取り上げ、「イエスは自分自身を真のぶどうの木にたとえ、私たちを、ご自身と繋がらずには生きることができない枝として語っておられます。そしてまた、イエスは私たちを必要としています… 枝は自分だけでは生きていけない。存在の源である,ぶどうの幹に完全に依存しているのです」と強調された。

 この朗読の箇所で、イエスは弟子たちに「あなた方は、私(あるいは木)に繋がっている」と7回も繰り返されているが、これは、イエスが「この世を去って父に行かれる前に、ご自身といつまでも繋がっていられるのだと強調され、弟子たちを安心させたかったのです」と指摘。

 この「繋がる」は、受け身的、あるいは主の懐でまどろむようなものではなく、生身でつながることを意味する、とされ、「イエスが示される『繋がる』は積極的、相互的な意味を持っています」と語られた。そして、枝はつるがなければ育たず、実をつけることもできないように、つるも、実は幹には育たないために、枝を必要とする、つまり、「互いを必要としている。実を付けるために、(幹と枝はつるで)互いに繋がっていなければならないのです」と説かれた。

*私たちはイエスを必要とし、イエスも私たちを必要としておられる

 そして、まず第一に、私たちは主イエスを必要としており、「主の戒めを守る前に、至福の教えの前に、慈悲の業の前に、主に繋がり、主に留まる必要がある。イエスに留まらなければ、私たちは良いキリスト教徒にはなれません。私たちは、イエスと共に働くことで、すべてを行なえる」が、一方で、イエスもまた、私たちを必要としておられる、とされた。

「互いを必要としている」とは、大胆な考えのように思われるかも知れないが、では、「イエスは、どのような意味で私たちを必要とされているのでしょうか」と、教皇は信徒たちに問いかけられ、こう答えられた。

「イエスは私たちの証しを必要とされているのです… イエスが父のところに昇られて以後、言葉と行いで福音を宣べ伝え続けるのは、弟子たちの仕事、そして私たちの仕事になった。私たちは、主の愛を証しすることで、それを続けねばなりませんー『生むべき実は、愛』なのです」。さらに、キリストと繋がり続けることによってのみ、「私たちは、聖霊の賜物を受け、私たちの隣人と社会に、教会に善をなすことができるのです… 真のキリスト教的生活はキリストを証しすることです」と説かれた。

 

*私たちの生活の実りは祈りにかかっている

最後に教皇は、イエスの言葉ー「あなたがたが私に繋がっており、私の言葉があなたがたの内にとどまっているならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」【ヨハネ福音書15章7節)を引用され、「私たちの人生が実り豊かなものになるかどうかは、祈りにかかっている」とされ、次のように結ばれた。

「私たちは主に願えます。私たちが、イエスのように考え、イエスのように行動し、イエスの目で世界を見、物事を見るように、そして、イエスがなさったように、最も貧しい人たち、最も苦しんでいる人たちを始めとする私たちの兄弟姉妹を愛し、イエスの心をもって愛し、善と慈愛、平和の果実を世界にもたらすように、と」>

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=聖書の引用の日本語訳は「聖書・聖書協会共同訳」を使用)

 

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2021年5月2日