(2025.3.5 Vatican News Joseph Tulloch
入院・治療中の教皇フランシスコは5日の「灰の水曜日」のミサに用意された説教の中で、「灰を額(ひたい)に塗ることは、自分自身を見つめること、自分の弱さを思い起させる。私たちは塵から創られ、塵に帰るのです」と語られ、さらに、灰は「私たちが何者か」という記憶を私たちの中によみがえらせると同時に、「私たちが何者になるか」の希望もよみがえらせることを強調された。
ローマのサンタ・サビーナ教会で行われた「灰の水曜日」のミサで、教皇はご自分で用意された説教の代読を、バチカン内赦院長のアンジェロ・デ・ドナティス枢機卿に委ねられた。
*灰は、私たちに人の儚さを思い起こさせ、自惚れを防ぎ、謙虚にさせる
説教で教皇はまず、灰を受けることが、私たち自身についてより深い現実を思い起こさせることに焦点を当てられ、「私たちは灰を受けるために頭を垂れます。それはあたかも自分自身を見つめるため、自分自身の中を見つめるためであるかのようです。灰は、私たちの命が、はかなく、取るに足らないものであることを、思い起こさせてくれます。私たちは塵であり、塵から創られ、塵に帰っていくのです」と語られた。
そして、「この儚さは、さまざまな形をとります。疲れ、弱さ、恐れ、失敗、破れた夢、病気、貧困、苦しみ、そしてもちろん死もそうです。私たちは時に、こうした、儚さ(はかなさ)の現実から逃げ出そうとしますが、灰を受けることは、私たちにそうした自分自身を思い起こさせるのです」とされ、「これは私たちにとって良いことです。自惚れ(うぬぼれ)るのを防ぎ、現実に立ち戻って、より謙虚になり、互いに助け合おうとする機会となるからです」と説かれた。
*灰は、私たちに「希望」を与えてくれる
続けて教皇は、「灰は私たちに、自分の弱さを思い起こさせますが、同時に楽観的にもしてくれます。私たちに、『神の子であるイエスが、この世の塵を身にまとい、それを天の高みにまで上げられたのだ』という、希望を思い起されてくれるからです」と指摘。「このような希望は重要です。この希望がなければ、私たちは、人間の持つ脆さをただ受け身的に耐えることになり、自らの死を前にすると、悲しみと孤独に沈んでしまう危険性があるからです」と語られ。
そして最後に、「心を込めて神のもとへ帰りましょう! 神を私たちの生活の中心に据えましょう! そうすれば、『私たちは風に散らされた灰のように儚く、もろい存在だ』という記憶が、復活した主の希望で満たされることになります」と述べ、説教を締めくくられた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)