(2026.7.5 Vatican News Isabella H. de Carvalho)
教皇レオ14世は5日、年間第14主日の正午の祈りに先立つ説教で、「キリストは、私たちの苦難を自ら引き受け、この世に存在する悪に対する答えであること」に注目され、「神の知恵が、受肉の謙虚さの中に現れている」ことを強調された。
「キリストこそが、私たちの困難や苦しみの重荷を和らげることができる唯一の存在ですが、その愛は謙遜を通してのみ見出されます」と語られた教皇は、「奴隷の状態において、キリストは解放。戦争という災いの中で、キリストは希望。罪の刻において、キリストは赦しなのです」と指摘。
そのうえで、 「これこそが真の知恵であり、私たちがキリストの名のもとに弟子として結ばれ、共に歩みたいと願う道です。イエスは御子として、私たちの兄弟となることによって、これを教えてくださる。聖霊の力によって、イエスは教会に、神と人間に関する真理を明らかにしてくださるのです」と説かれた。
*イエスは、悪によって傷つけられた人間性を自ら引き受ける
教皇は、私たちが背負う十字架の重荷が「容易」で「軽い」ものとなり得るのは、「主ご自身が私たちと共にそれを担い、私たちを重荷の下で決して一人にしないからに他なりません… 真の教師として、イエスは、悪によって傷つけられた人間性を自ら引き受けられ、癒やされ、慈しまれるのです」とされ、また、「十字架の意義を理解することこそが、希望と慰めを見出す道です」と語られた。
さらに、「キリストから得られる知恵は『救いの宣言』であり、負われた軛は、あらゆる転落から私たちを立ち上がらせてくれます」と述べられ、この日のミサで読まれたマタイによる福音書第11章25節から30節(「…私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽い…」)を引用された。
そして、「キリストに従う私たちの旅路は、肉体を苦しめる禁欲主義ではない。 それは歴史のドラマを真摯に受け止め、最も暗い瞬間において、その意味に絶えず光を当て続ける自由の学校です… ですから、イエスの十字架においてのみ、悪は打ち負かされ、その受難においてのみ、私たちのこの世の疲れは慰めと贖いを見出すのです」と強調された。
*神の教えは、苦闘するすべての人々に向けられている
教皇はまた、「謙遜こそが、キリストの愛を理解するための不可欠な要素」と指摘され、「今日の福音で、イエスは私たちに、父を賛美するために御自身に加わるよう招いておられます… そのような自発的で喜びに満ちた仕草の単純さは、神が『幼子たち』に御自身を明らかにすることを喜びとしつつ、『賢者や知者』からは隠されたままにすること、を反映しています」と述べられた。
「彼ら(賢者や知者たち)は自らの考えに満ち溢れているがゆえに、民を訪ねて来られるメシアであるキリストの存在を認識できません… そうして人間の知恵は傲慢となり、教義は高慢へと堕落するのです」とされる一方、「彼らとは対照的に、神の真の知恵は受肉の謙虚さの中に現れ、神の教えはとりわけ苦闘する者たちに向けられています。『疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい』とキリストが言われた通りです」と語られた。
説教の終わりに教皇は、「『イエスのもとに行く』ということは、イエスの愛に応え、十字架に至るまで、イエスの生涯に参与することを意味します… まさにこの『愛による自己献身』こそが、イエスの『軛』を構成するものであり、イエスの教えの本質であり、すべての人への愛に燃えるその知恵の核心なのです」と強調された。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)