*「罪人の私を憐れんでください」
今年の「主のための24時間」の主題は「罪人の私を憐れんでください」(ルカ福音書18章13節)。 教皇はミサ中の説教で、(パウロがフィリピの信徒への手紙に書いているように)「私たち自身のエゴとプライドが主との対話の妨げになり得ること」を強調され、パウロは「律法に関してはファリサイ派、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義に関しては非の打ちどころのない者」(3章5‐6節)と自己の”宗教的業績”を誇りに思い、神に対して心を閉じていたことを示された。
そして、旧約聖書に「身分の低い者の祈りは、雲を突き抜けて行く」(シラ書35章21節)とあるが、それは、「霊において貧しく、救いと赦しの必要性を自覚している人だけが神の前に来るからです。 彼らは、自分の功績を自慢したり、見せかけや思い込みをしたりせずに、主の前に来る。何も持っていないから、すべてを見つける、神を見つけるからです」と説かれた。
*常に謙虚であれ
教皇は、また、ルカ福音書の「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ話」(18章10‐13節)を思い起こされ、神殿に上った二人のうち、遠く離れて立って、「神様、罪人の私を憐れんでください」と願った徴税人の祈りだけが、神の心に届くことを指摘。「彼は前に出ようとはしない。後ろにとどまります。 しかし、神の前で自分の罪深さを告白するその”距離”が、父の愛と憐れみに満ちた抱擁を体験することを可能にするのです。 神が彼のところに来ることができたのは、彼が遠くに立ち、神のための場所を空けたからです」と強調された。
*真の対話を可能にするのは
そして、「真の対話は、私たちが自分と他者の間に一定の空間を保つことができるときに、成立します。私たちが物事がどのようなものであるか、『対話と出会い』がどのように橋渡しし、親密さを生み出せるか気づくことができます。 福音書にあるように、徴税人は自分が神の前にどのように立っているかの真実を認識し、神殿の後ろの方に立ている。そしてこのことが、神が彼のそばに来られることを可能にするのです」と語られた。
*心を開いて
さらに教皇は、信徒たちに、「兄弟姉妹の皆さん、このことを思い出しましょう。私たちが傲慢なエゴから一歩、距離を置いたとき、主は私たちのところに来てくださいます。 私たちが正直さと誠実さをもって、自分の弱点を彼の前にさらすとき、主は私たちとの距離を埋めることができるのです… 神は私たちを待っておられます。特に告解の秘跡で私たちを待っておられます」と述べられた。
そして、ファリサイ派の人と徴税人の神の前での振る舞いが、いずれも「私たちの心の奥深くにある可能性」があることから、良心の糾明を勧められ、「 私たちは見せかけの偽善を避け、私たちの心の闇、過ち、惨めさを主の憐れみに委ねなければなりません。 そうすることで、私たちの人生に対する神の夢と、私たちの日々の現実の姿との間の”距離”を認識することができるのです」と説かれた。
さらに、「赦しの秘跡の意味、それは、心を癒し、内なる平和を私たちにもたらす出会い。 恐れを持って近づく”法廷”ではなく、慰めを見いだす”神の抱擁”です」とされ、告解を聴く司祭たちに向けて、「告解する信徒たちが求める赦しをすべて赦すように、彼らの言葉に理解をもって、率直に耳を傾けるように、そうすることで、赦しの秘跡が彼らに誠の平和を与えられますように」と励まされた。