そして、「イエスは、弟子たちに『あなたがたの人生は、しっかりと神の御手の中にある。だから心配しないように』と励ましておられます。私たちは、時として、不安、心配、不信、失敗や、愛されないことへの恐れで、自分の中に閉じこもっていると感じ、自分のことだけを考え、物や富を積むことで安心したいという誤った願望を抱くことがあります。そのような時、イエスのこの励ましの言葉は、私たちも勇気づけてくれます」と説かれた。
「イエスは私たちを安心させてくださいます。恐れることはない。あなたが本当に必要としているものをすべて与えたいと望んでおられる御父を信頼してください。御父はすでにあなたに、御子、神の王国を与えてくださっており、いつも摂理を伴って、日々、あなたの世話をしてくださいます」。
また教皇は、「主がいつも見守ってくださっているので、私たちは安心できる。だからと言って、『眠りこけ』てしまったり、『怠惰に身を任せ』たりしていい、というわけではありません。いつも(そうならないように)警戒し、用心していなければなりません」と注意を与えられた。
そして、「愛が、そうすることを求めます。愛を持つことで、私たちも、他者の求め、善にいつも注意を払い、彼らの声の耳を傾け、彼らを喜んで受け入れることができるからです」と説かれた。
さらに教皇は「良い時も悪い時も、警戒心と備えが必要であることは、キリスト教の知恵を反映しています」とされ、「イエスは、たとえ話の中でこの勧めを何度か繰り返し、『私たちは目を覚ましていなければならない』、つまり、『気を散らしたり、内なる怠惰に身を任せたりしないようにせねばならない』というメッセージ送っておられるのです」と語られ、さらに次のように述べられた。
「私たちの生涯の終わりに、主は私たちに託された賜物を説明するために、私たちを召してくださいます。用心深くある、ということは、責任を持つこと、つまり、それらの賜物を忠実に守り、管理することも意味するのです」。
最後に教皇は、「信仰、家族、人間関係、地域社会など、私たちの命と、人生で受けたものを振り返り、これらの主の賜物に感謝し、また、その賜物を大切にし、他者のことを考えずに自分のために使わない」よう自覚するよう、信徒たちに促され、改めて、「恐れることなく歩みましょう… 主が共にいてくださることを自覚し、主が私たちの傍に来られるときに、眠り込んでいることがないように」と強調された。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)