*私たちは皆、宣教師
また教皇は、日々の仕事の「網」に追われている私たちも「言葉に溺れているが、無視されることの多い御言葉に飢え渇いているこの世界に、宣教師として、神の使者、証人として、主と共に外に出かけるように、との主の呼びかけを聞く必要があります」とされ、「この力によって教会は生き、キリストに呼ばれ、引き寄せられ、キリストを証しするために世界に派遣されるのです」と語られた。
そして、何世紀にもわたって聖徒たちがどのようにして神の御言葉に心を開き、御言葉に触れ、イエスの平和と他者への思いやりによって、自らの魂を新たにしたかを思い起しつつ、私たちも、神の御言葉に耳を塞ぐのを止めるなら、彼らと同じように心を動かされるようになります」と諭された。
教皇はさらに、「私たち皆にとっての危険は、聞くことすべてに圧倒され、神の言葉を聴き、受け入れ、活かすことなく、自分から飛び去らせてしまうこと」と指摘。
また、「神の言葉を読もうとする場合、聖書を読むとともに、祈る必要があります。神と読む者の対話となるようにです」とされ、キリスト教の祈りの 2 つの要点は「御言葉を聞くこと」と「主に祈ること」にあることを思い起こされ、 「イエスの言葉を、祈りながら読むようにしましょう。 そうすれば、私たちはイエスの最初の弟子たちと同じ経験をすることになります」と勧められた。
*新しい人生を求めて
教皇は、弟子たちが網を置いてイエスに従ったマルコ福音書の場面を思い起しつつ、信仰に根ざした意味のある新しい人生、つまり自分にとって最も大切なものを中心とした人生を受け入れるために、これまでの暮らしを捨てた弟子たちの決断と勇気について語られ、さらに次のように述べられた。
「聖書は、私たちを善の中に立ち上げ、私たちが真の人間であること-つまり救われ愛された神の子であることを思い起させてくれます。聖書は、信仰を麻痺状態から解放し、私たちにキリスト教徒としての人生の真の姿―主との愛の物語⁻を新たに味わわせてくれるのです」 。
*主に付き従う
また教皇は、イエスに呼ばれた弟子たちが、すぐに網を置いて主に付き従ったことに注目され、「彼らの選択は、キリストの御言葉が、どのようにして私たちを過去と現在の重荷から解放し、私たちが真理と愛において成熟するのを助け、新しい命と希望を与えてくれるか、を示しています」と語られた。
私たちも「神の生ける言葉であるイエスに聴くことから生まれる信仰の源に、喜びをもって立ち返ることができるように」と祈られ、「 私たちはしばしば教会についての言葉で”集中砲火”を受けますが、『教会に響く命の言葉』を聴き、受け入れることを逃すことのないように」と願われた。
そして、「多くの人が切望しながらも見つけることのできない『生ける水』を世界に届けるために、源に立ち返りましょう。社会やソーシャルメディアが言葉の暴力を振り撒く中にあっても、救いをもたらす静かな言葉に接し、育んでいきましょう」と呼び掛けられた。
*神の言葉を読む
続けて教皇は、自分の生活を振り返り、その中に神の言葉が入る余地をどれだけ確保しているか、次のように自問するように勧められた-「 自分が読み、消費するものすべての中に、聖書のためのスペースを確保しているか? 自分のそばに、ポケットや財布の中に、電話の中に、聖書があるだろうか? 」。そして、こう問いかけられた- 「自分にとって、キリストが何よりも大切なら、キリストを家に残し、神の御言葉を持ち歩かずにいられますか?」。
説教の最後に教皇は、「多くの方がまだそうしておられないかも知れませんが、4 つの福音書のうち少なくとも 1 つを読むように」と勧められ、ミサに参加した5000人に、マルコの福音書のコピーを配布された。そして、神が「美の創造者」であることを強調され、「神の言葉が日々の生活にもたらす素晴らしさに、私たちが”征服”されるように」と祈られた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)