
*信仰生活は回心の旅
教皇は、聖書に登場するイスラエルの民がエジプトから約束の地へと向かった出エジプトを思い起こされ、「私たちの人生もまた、旅であり、その旅は神へと向かうべきもの。この旅は単なる比喩的なものではなく、絶え間ない『回心』への呼びかけを伴うもの」であり、罪を犯す機会や人間の尊厳を損なう状況を後に残ことのないよう促すもの、とされた。
そのうえで、四旬節のこの時期に、自らの人生を振り返るように、「自分は積極的に精神の刷新の道を歩んでいるのか」、それとも「恐れや絶望感に足止めされているのか」、あるいは「居心地の良い領域から出ることをためらっているのか」と自らに問いかけるように勧められた。
さらに、教皇は、ヘブライ人の「奴隷から自由への苦難に満ちた道」と現代の移民や難民の苦境を比べながら、この四旬節を「よりよい生活を求めて悲惨と暴力の状況から逃れざるを得ない人々」の苦闘と、自らの人生をどう関連付けるかを考える機会として活用し、「そうすることで神が私たちに何を求めているのかを発見するに… そうすれば、放浪者である私たち全員にとって良い『心の整理』となるでしょう」と述べられた。
そして、「聖書の出エジプトを考えるとき、自分自身や愛する人たちのよりよい生活を求めて、悲惨と暴力の状況から逃げている現代の兄弟姉妹たちのことも考えずにはいられくなります。 このように、『回心』の最初の呼びかけは、私たち全員がこの世で巡礼者である、という認識から来るのです」と強調された。
*共に歩む旅への呼びかけ:交わりの呼びかけ
教皇の四旬節のメッセージの根本的な側面は、共同体と交わり(synodality=共働性)の強調にあう。つまり、キリスト者は「孤立してではなく、共に歩むべきだ」という考えだ。教皇は、「聖霊は私たちを自己中心的な状態に留めるのではなく、神と兄弟姉妹に向かって歩み続けるよう促しています」とされ、「『共に歩む』とは、『誰一人、取り残したり排除したりすることなく、神の子としての共通の尊厳を基盤とした一致を強化すること』にあります」と強調。
また、信者たちに対して、「自己中心的な考えに陥る誘惑に抵抗し、家族や職場、地域社会において他者と共に歩むことができるかどうかを考える」よう求められ、次のように自らに問いかけるよう勧められた―「私たちは他者を歓迎しているだろうか? 疎外感を感じている人々を受け入れているだろうか?」、さらに、「神の御前で、司教、司祭、修道者、信徒として神の国に仕える者として、私たちが他者と協力しているだろうか?」「身近な人にも遠くにいる人にも、具体的な行動で歓迎の意を示しているだろうか?」「他者を共同体の一員と感じさせているだろうか、それとも距離を置かせているだろうか?」。
*希望を持って旅する呼びかけ
教皇のメッセージの、四旬節の旅の3つ目の基本的な次元は「希望」だ。それは、イエスの復活における救いと永遠の命という神の約束、罪と死に対する勝利に根ざしており、抽象的なものではなく、具体的に、それを生きるものでなければならない。
教皇は、「私たちが神の慈悲を本当に信頼しているかどうかを吟味するように」とされ、具体的に、「私たちは神の赦しを信じているだろうか、それとも自己信頼の罠に陥っているだろうか?」、そして、「私たちは、正義と友愛への献身、私たちの共通の家を大切にし、誰もが疎外感を感じないような方法を鼓舞する希望を具体的に経験しているだろうか?」と自問するよう促された。
メッセージの最後に教皇は、アヴィラの聖テレサの言葉を引用され、「このメッセージは、『神の約束は、神の時が来れば果たされる』ということを理解し、警戒を怠らず忍耐強くあるように。アヴィラの聖テレサはこのように祈っています―『希望よ、わが魂よ、希望よ。汝は日も時も知らず。汝の焦りが確かなものを疑わしくさせ、ごく短い時を長く感じさせるとしても、すべてはすぐに過ぎ去る。だからよく見張れ』と」と語られた。
そして、この希望の旅を「希望の母」である聖母マリアの取り成しに委ね、主の復活の喜びを祝う準備をする中で、聖母マリアが私たちと共ににいてくださるよう祈られている。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)