
(2021.6.19 Vatican News By Robin Gomes)
教皇フランシスコは19日、ローマ司教区の終身助祭たちとその家族など約500人を前に、終身助祭の役割について、「司祭や司教に代わるものではないが、教会の典礼奉仕で重要な役割を果たしている」と強調された。
この会見で教皇はまず、「教会の神の民たちの間での終身助祭」について、「最前線を求めずに過ごす助祭の寛容さは、福音の香りがし、神に背を向けた人々にさえ会う最初の一歩を踏み出す神の謙遜さの素晴らしさを物語っています」と、ご自身の受け止め方を述べられた。
終身助祭は、カトリック教会の助祭、司祭、司教という司牧者の位階の最初の段階。第二バチカン公会議を機に「聖職位階における適切かつ恒久的な職位」として、終身助祭を復活させている。助祭の中で、司祭に叙階される前の段階として位置づけられる”暫定”助祭に対して、終身助祭は、司祭叙階を前提としない”恒久的”な助祭。第二バチカン公会議が出した教会憲章では、助祭は「祭司職のためではなく、役務のために」按手を受ける(第3章29項)とされ、さらに「助祭職は壮年男子には、結婚生活をしていても授けることができる」(同)と定められた。
*司祭叙階を考えない終身助祭が「聖職者主義」克服に役立つ
教皇は、司祭叙階を前提とする者に限られていた従来の助祭と異なる、司祭叙階を前提としない「終身助祭」は「『司祭という特権階級を、神の民の上に置く『聖職者主義』の悪習を克服するのに役立つ」とされ、「これが克服されないと、教会における聖職者主義が続いてしまうでしょう」と語られた。
さらに、「助祭は、神の民への奉仕に捧げられているからこそ、『教会では、誰も自分自身を他の人よりも上位につけることができない』ことを、私たちに思い起こさせてくれます。教会では、『身を低くする』論理が適用されねばならない… 最も小さい者、全ての人の奉仕者としてご自分の身を低くされたイエスに倣って、私たちは皆、自分自身を低くするように求められているのです」と強調。
「ですから、イエスの弟子にとって『愛することは、仕えること』であり、『仕えることは、治めること』だということを忘れないでください。権力は奉仕にある。他にありません…助祭は教会における奉仕の守護者ー真の『力』の守護者ーであり、誰も奉仕の力を超える者はいません」と説かれた。
さらに、ご自身が「構造的に助祭的な教会」と呼ばれるものについて言及された教皇は、終身助祭たちに、「もしもあなた方がこの奉仕の特質を生かさなければ、助祭職は不毛となり、実を結ぶことができず、ゆっくりと世俗的になっていくでしょう」とも注意を与える一方、 助祭の役目は「愛をもって燃え、謙遜と喜びをもって奉仕する心」を持つことを教会に気付かせることにある、とされ、「”最前線”を求めることなく職務に励む助祭の寛容さは、福音の香りがし、ご自分に背を向ける人々にさえお会いになろうとする神の謙遜の素晴らしさを語っています」とその役割を高く評価された。
*助祭職が専念すべきは「愛と管理」
司祭の召命が減っている現状が、代替措置としての助祭の貢献を求める結果にもなっているが、教皇は「そのことが、助祭職に新たな役割を設けることはありません。第二バチカン公会議は、教会憲章で、助祭職をキリスト教の初期教会のように、『愛と管理の務めに専念』することを強調しています。大帝国の首都ローマでは、7つの場所が組織され、教区とは別に下部の行政体に所属し、助祭たちはそこで、キリスト教共同体コミュニティ全体ーとくに『最も小さい者』、使徒言行録にある『必要とされない者』のために幅広く働きました」と指摘された。
*助祭は”半司祭”ではない
教皇はまた、ローマ司教区が聖スタニスラオ教会やカリタスなどが貧困者に奉仕する地域で、 diakonia (ギリシャ語で「奉仕」)によって初期教会の伝統を回復しようとしていることを明らかにしたうえで、「このように、助祭は自分の方向を見失うことなく、”半分あるいは第二分類の司祭”、”熟練を要する祭壇奉仕者”になりますが、誰も区別することなく世話するー主の愛が具体的な仕方で人々の命の営みに触れていることを確かなものとするー奉仕者となるのです」と言明。
そして、「助祭の霊性は、ひとことで言うと『内に用意が出来ていること、外に開かれていること』です。『はい』と心から言う用意があり、従順で、人生を自分が決めた課題を中心に展開させない、心を外に開き、すべての人、特に落ちこぼれた人、社会からのけ者にされていると感じる人に目を向けるのです」と語られた。