教皇フランシスコは22日、年間第29主日の正午の祈りに先立つ説教で、「信仰と日々の暮らしを『別のもの』と考える誘惑に」対して警告され、「そのような考え方は、一種の『統合失調症』です」と厳しく批判された。
そして、「私たちは主に属しており、地上のいかなる権力の奴隷でもありません」と言明され、 信仰と日々の暮らしが無関係だ、と考えがちな人々に対し、率直に言って、そのような考えは真実ではない」と注意された。
教皇の説教は、この日のミサで読まれたマタイ福音書の「皇帝への税金」の箇所(22節15章以降)をもとにしたもので、そこには、「イエスを罠にはめるために」ヘロデ派と一緒になったファリサイ派の人々のことが書かれている。
「 彼らはイエスのところに行き、『皇帝に税金を納めるのは許されているでしょうか』と尋ねます。 それは策略です。イエスが税金を正当化すれば、イエスは国民から不支持な政治権力の側に自分を置くことになりますし、逆に、イエスが税金を支払わないと言えば、帝国に対する反逆罪で告発される可能性があります。 しかし、イエスは彼らに持っている硬貨を見せるように言われ、罠を逃れました。硬貨には皇帝の像が刻まれています。イエスはそのことをもとに、彼らにこう言います-『では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい』と」と語られた教皇は、信者たちに「これはどういう意味でしょうか?」と尋ねられた。
教皇は、イエスのこの言葉は、教会で”ありふれたもの”になっており、「教会と国家、キリスト教徒と政治の関係について語るために、時には誤って、あるいは少なくとも、それに帰結するように、多くの場合、次のように解釈されています」と指摘されたうえで、「そうではなく、イエスは『皇帝』を『神』と、つまり地上の現実を霊的現実と区別したかったのです。私たちも時々、『信仰とその実践は別のものであり、日々の暮らしは別のものだ』と考えてしまいます。でも、これは『統合失調症』の一種であり、あたかも信仰が現実の生活とは何の関係もないかのように、思い込むのです」と注意された。
そして、「イエスは、『皇帝』と『神』をそれぞれ適切な場所に置けるように、私たちを助けたいと望んでおられるのです。私たちは、主のものですから」とされ、「イエスは、『すべての人間が神のものである』という根本的な現実を確認しておられます。このことは、私たちが地上のどの現実にも、この世界のどの『皇帝』にも属していないことを意味ます。私たちは主のものであり、この世の権力の奴隷になってはなりません。 たとえ硬貨に皇帝の肖像が刻まれてたとしても、覚えておくべきは、『私たちの人生には、何者も、誰にも覆い隠すことのできない神の姿が刻まれている』ということです」と説かれた。
教皇フランシスコは、「この世のものは『皇帝』に属するかもしれませんが、『人間と世界そのものは、神のものである』と言うことを忘れてはなりません!」と強調され、「 イエスは私たち一人一人を本来、自分自身があるべき姿に戻してくださいます」と続けられた。
そのうえで教皇は、信者たちに、「自分は、このような適切な理解を持っているか?」「自分には、個人的な偽善を克服する必要があるか?」と自問するよう促され、さらに、 「この世の硬貨には『皇帝』の像が刻まれているが、あなたは自分の心の中にどのような像をイメージを抱いていますか?あなたの人生の像は、誰ですか? 私たちは、自分が主のものであることを覚えているでしょうか?それとも世の論理に自分をはめ込まれ、仕事、政治、お金を、崇拝すべき偶像にしてしまっているのでしょうか?」と続けられ、最後に、「私たちとすべての人間の尊厳を認識し、尊重できるよう助けてくださいますように」と聖母マリアに祈られた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)