(2024.12.15 Vatican News Francesca Merlo)
教皇フランシスコは、47回目の海外訪問となったフランス領コルシカ島での最後の公的行事として、アジャクシオのアウステリッツ広場でミサを捧げられた。
説教で教皇は、キリストの再臨へ精神的な刷新と喜びにあふれた期待をもつよう呼びかけ、世界が直面する課題に、信者たちが謙虚さ、希望、慈善の行為をもって対応するよう促された。
ミサで読まれたルカ福音書に記された救い主の到来を告げる洗礼者ヨハネの言葉を引用された教皇は、ミサに参加した全ての信者に、その言葉に託された霊的な刷新と回心のメッセージを受け入れるよう呼びかけられた。
教皇は、この箇所で、群衆が洗礼者ヨハネに「私たちはどうすればよいのですか」と問いかけた(ルカ福音書3章12節)ことについて、「主の到来に備えて、自分の行動や態度について考え直すようにと、私たちを促しているのです」とされた。
「この問いかけは、ファリサイ派の人や律法学者など”正統派”からではなく、徴税人や兵士など”部外者”と見なされている人々から出された。不正や暴力に満ちた過去に苦しめられてきた彼らは、自分たちの生き方を変えようとした。実際、彼らには変革の呼びかけを受け入れる準備ができていたのです」と指摘された。
さらに教皇は、「福音は、貧しい人々や社会から疎外された人々など、最も弱い立場にある人々の良心を揺り動かし、裁かれるよりも救われるためにキリストのもとに引き寄せられます… 現代の世界においても、過去と同様に、回心の呼びかけは、過去に過ちをしたかどうかに関わらず、常にすべての人に開かれているのです」と強調。
そして、「『私たちはどうすればよいのか?』という問いかけは、この待降節に、私たち全員が行うように求められています… キリストの到来を、謙虚な心で準備するように」と呼びかけられた。
また教皇は、救い主を待つ2つの全く異なる方法として、「疑い」と「喜びの期待」を挙げられた。
まず、「疑い」は、「不安、不信、世俗的な関心に根ざしています… 『疑い』は喜びを経験することを妨げます」とされ、「自分自身に集中すればするほど、神の摂理を見失う。その解決策は、信仰と祈りにあります」と説かれた。
「喜びの期待」については、「主の到来を、喜びをもって待ち望むように。キリスト教徒の喜びは、浅薄でも、はななくもありません。それは心に根ざし、確固とした基盤の上に築かれた喜びです」と語られた。
そして、 預言者ゼファニアの言葉-「あなたの神である主はあなたのただ中におられ、救いをもたらす勇者」(旧約聖書・ゼファニア書3章17節)を引用して「主が民の真ん中にいて勝利と救いをもたらしているからこそ、民は喜ぶべきなのです… 主の到来は私たちに救いをもたらす。それが私たちの喜びの理由… この喜びは、人生の苦難を忘れることではなく、むしろ神の存在によって強さと平安を見出すことにあります」と説かれた。
説教の結びに教皇はアジャクシオの地元コミュニティ、特に慈善活動や献身的な奉仕によって教会生活を豊かにしている同市の信心会(Confraternities)の多大な貢献を称賛され、「キリストの喜びの精神を体現しながら、困窮者への奉仕を続けるように」と信者たちを促された。また、洗礼や秘跡の準備をしている若者たちを中心に、信者たちに平和と希望を育むよう勧められ、「喜びこそが教会の宣言の”スタイル”であり、キリストの光を必要としている世界にもたらすもの」であることを信者たちに思い起させられた。
さらに、「人々の知恵を体現する高齢者を常に気にかけるように」と信者たちに求められ、ミサに参列した多くの子供たちについても触れ、特に若い人々への配慮を求め、世界中で戦争に苦しむ多くの若者たち、特に「笑顔を忘れてしまった」ウクライナの子供たちについても触れられた。
最後に、教皇は今日の世界が直面する課題について語られ、「今日の世界には悲しみと絶望が数多くあります… 極度の貧困、戦争、腐敗、暴力…。しかし、神の言葉は、私たちを勇気づけることを決して怠らない。苦しみにもかかわらず、教会は失望させない揺るぎない希望を宣言します。主が近くにおられ、主の御前で、私たちは平和と正義のために働く力を得るからです」と強調。「キリストにおける喜びは、あらゆる時代、あらゆる苦難の中で、私たちの喜びの源であり続けます」と信者たちを励まされた。