(2023.4.2 Vatican News Francesca Merlo)
ローマのジェメリ病院から前日1日に退院された教皇フランシスコは2日、聖パウロ広場の特設祭壇で、受難の主日(枝の主日)のミサ、続いて正午の祈りを主宰された。
ミサ中の説教で教皇は、今読まれたマタイ福音書の「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(27章46節)という十字架上のキリストの叫びを振り返られ、同福音書で書かれたイエスの十字架上のこの唯一の言葉は、私たちを救いのために耐え忍ばれた苦しみの集大成であるキリストの受難の真髄に私たちを導きます」と語られた。
*「わが神よ、なぜ私をお見捨てになったのですか」の叫びで私たちとひとつになられた
教皇は、イエスの苦しみは数多く、私たちが受難の話を聞くたびに「私たちの心を突き刺します」とされ、「こらは体の苦しみだけでなく、魂と霊の苦しみでもあります。これらすべての悲しみの中で、イエスは一つのことを確信しておられました。それは、『父との親密さ』です」と強調された。
そして、「わが神よ、なぜ私をお見捨てになったのですか」というイエスの叫びは、「 すべての苦しみの中で最も酷いもの。最も悲惨な時に、イエスは神に見捨てられた、と感じられたのです。その時より前に、イエスは父のことを『神』と呼ばれたことは一度もありませんでした」とされ、「神とのこの距離感は、イエスのこれまでの人生とは完全に異質です。(そのような感覚を持たれた )唯一の理由は、『私たちのためにそうなさった』のだ、ということです」と説かれた。
さらに、 「イエスは、最後の最後まで私たち(人間)の1人でした。私たちの誰もが二度と孤独を感じたり、希望を失ったりすることはないように、完全かつ決定的に、私たちとひとつになられました。私たちが絶望の餌食にならないように、私たちのそばに永遠にとどまられるために、見捨てられる経験をされました」と語られた。
教皇は、ミサに参加したすべての信徒たちに、「主が私たちを救ってくださるのはこのようななさり方」であることを覚えておくように求められ、「イエスは、十字架上で完全に見捨てられたと感じた時においてさえ、父と離れたと感じたにもかかわらず、絶望に屈することを拒まれ、ご自身をその父の手に委ねられたのです」と強調された。
*最後まで私たちを抱きしめるイエスの愛
「兄弟姉妹の皆さん。このような、私たちを完全に最後の最後まで抱きしめてくださる愛は、私たちの石の心を肉の心に変え、慈しみ、優しさ、思いやりもてるようにしてくれます。キリストは、父なる神から見捨てられたと感じる中で、私たちが父を求め、父と、見捨てられた人々を愛するように奮い立たせてくださいます」と説かれた。
そしてまた、今、私たちの周りの見捨てられている人たち、特に昨年11月に聖ペトロ広場の列柱の下で亡くなったドイツ人のホームレス男性、ブルクハルト・ シェフラー氏を思い起され、「とても多くの人々が私たちの親密さを必要とし、とても多くの人が見捨てられています。私たち全員が、日々の暮らしの中でイエスの親密さを必要としているのと同じように、見捨てられた人、孤独な人の中にイエスを見つけるために、出かけなければなりません」と訴えられた。
説教の最後に教皇は、「拒絶され、排除されている人たちは、キリストの生ける姿。彼らは、キリストの”無謀”な愛、あらゆる形の孤独と孤立から私たちを救い出す放棄を、私たちに思い起こさせます」とされ、「見捨てられたイエスを愛し、私たちの周りのすべての見捨てられた人たちの中におられるイエスを愛する恵みを願いましょう。そして、そうしてのみ、私たちは、私たちのためにご自身を空しくされた方と心が一つになります」と訴えられた。