(2025.5.18 カトリック・あい)
レオ14世の教皇職開始を記念するミサ(着座を祝うミサ)が18日午前10時(日本時間同日午後5時)から、バチカンの聖ペトロ広場で行われた。ミサには、世界約150カ国の代表らが参列。ウクライナのゼレンスキー大統領、ドイツのメルツ首相、イタリアのメローニ首相、カナダのカーニー首相、スペイン国王フェリペ6世、新教皇の出身国米国からはバンス副大統領、ルビオ国務長官、日本からは麻生太郎・自民党最高顧問が出席した。一般のカトリック信徒や聖職者も十数万人が広場と沿道を埋めた。
バチカン発表のこのミサでのレオ14世の説教は以下の通り。
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親愛なる枢機卿の皆様、司教および司祭の兄弟たち、高名な当局者および
外交団の皆様!そして、聖年を記念して来られた巡礼者の皆さんにも、ご挨拶申し上げます。
兄弟姉妹の皆さん、私に委ねられた務めの始まりに、感謝の気持ちでいっぱいになって、皆さん全員に挨拶します。聖アウグスティヌスはこう書いています―「あなたは私たちを、あなたのために造られた、(主よ、)そして私たちの心は、あなたの中に安らぎを得るまで休むことはない」(『告白』1章1.1)。
この数日間、私たちは特に激しい日々を過ごしました。教皇フランシスコの死は、私たちの心を悲しみで満たし、その困難な時間の中で、私たちは福音書で「羊飼いのいない羊のような」と表現されている群衆のように感じました(マタイ福音書 9章36節)。まさに主の復活の日に、私たちは彼の最後の祝福を受け、復活の光の中で、主は決して民を見捨てず、散らばった民を集め、「羊飼いが羊の群れを守るように」守る(エレミヤ書31章10節)という確信を持って、この瞬間を迎えました。
この信仰の精神で、枢機卿たちは教皇選挙に集まりました。さまざまな歴史と道程を経て、私たちは、キリスト教の豊かな信仰の遺産を守り、同時に、今日の問題、不安、課題に立ち向かうことができる、新しいペトロの継承者、ローマ司教、牧者を選出する、という願いを、神の手に委ねました。皆さんの祈りに支えられ、私たちは聖霊の働きを感じました。聖霊は、さまざまな楽器を調和させ、私たちの心の弦をひとつのメロディーで響かせました。
私は、何の功績もなしに教皇に選ばれ、恐れと震えをもって、兄弟として皆さんの前に立ち、皆さんの信仰と喜びの僕となり、私たちをすべて一つの家族として結ぶ神の愛の道を進んでいきます。
「愛」と「一致」は、イエスがペトロに託した使命の二つの側面です。
福音書のこの一節は、私たちをティベリア湖へと導きます。そこでは、イエスが父から受けた使命、すなわち、悪と死の海から人類を救うために「人間をとる」という使命を始めらえた場所です。その湖の岸辺を通りかかった時、イエスはペトロと他の最初の弟子たちを呼び寄せ、自分と同じように「人をとる漁師」になるよう命じられました。そして今、復活の後、この使命を継承し、常に網を投げ、福音の希望を世界の海に沈め、人生の海を航海し、すべての人々が神の抱擁に再び出会えるようにするのは、まさに彼らなのです。
ペトロはどのようにしてこの任務を遂行できるのか?福音書は、彼が自分の人生で、失敗と否認の瞬間にも、神の無限で無条件の愛を体験したからこそ、それが可能になった、と教えています。そのため、イエスがペトロに語りかけるとき、福音書はギリシャ語の「agapao」という動詞を使っている。これは、「神が、私たちに抱く愛、無条件で打算のない自己の捧げもの」を指し、ペトロの答えに使われた動詞とは異なっています。その動詞は、「私たちがお互いに交わす友情の愛」を表している。
イエスがペトロに「シモン、ヨハネの子、あなたは私を愛しているか」(ヨハネ 福音書21章16節)とお尋ねになった時、それは「父の愛」を指しています。それは、イエスが彼に「この、決して失われることのない神の愛を知り、体験した者だけが、私の羊を養うことができる。父なる神の愛の中でだけ、あなたは兄弟たちを『さらに』愛することができる、つまり、兄弟たちのために命を捧げることができる」と語っているのです。
ですから、ペトロには「より多く愛し」、羊たちのために自分の命を捧げる、という任務が課せられています。ペトロの務めは、まさにこの自己犠牲的な愛によって特徴づけられているのです。なぜなら、ローマ教会は愛によって統治しており、その真の権威は「キリストの愛」にあるからです。それは決して、他者を抑圧や宗教的宣伝、あるいは権力の手段で捕らえることではなく、イエスがしたように愛することだけです。
使徒ペトロ自身が言うように、「あなたがた家を建てる者に捨てられ、隅の親石となった石」 (使徒言行録 4章11節) 。そして、その石がキリストであるなら、ペトロは、孤独な指導者や他の人々の上に立つ指導者になる誘惑に決して屈することなく、「割り当てられた人々を支配しようとせず」(ペトロの手紙1・5章3節参照)、兄弟たちの信仰に仕え、彼らと共に歩むことが、求められています。なぜなら、私たちは皆、「生ける石」 (ペトロ の手紙1・2章5節)であり、洗礼によって、兄弟愛、聖霊の調和、多様性の共生の中で、神の建物を築くよう召されているのです。聖アウグスティヌスは、「教会は、兄弟たちと調和し、隣人を愛する者たちすべてから成っている」と述べている(「説教」 359、9)。
兄弟姉妹の皆さん、これが、私たちの最初の大きな願いであってほしいと思います―「一致した教会、一致と交わりのしるしであり、和解する世界のための酵母となる教会」です。
今の私たちの時代には、憎しみ、暴力、偏見、他者への恐怖、地球の資源を搾取し、最も貧しい人々を疎外する経済パラダイムによって引き起こされた、あまりにも多くの不和、あまりにも多くの傷が見られます。そして、私たちはこの”パン生地”の中で、一致、交わり、兄弟愛の”小さな酵母”になりたい。
私たちは、謙虚さと喜びをもって、世界に向かってこう言いたい—「キリストを見よ!キリストに近づきなさい!照らし、慰めるキリストの御言葉を受け入れなさい!彼の愛を受け入れ、彼の唯一の家族となるよう、彼の提案に耳を傾けよう。唯一のキリストにおいて、私たちは一つです」。
そして、これこそ、私たち同士の間だけでなく、姉妹であるキリスト教の教会、他の宗教の道を歩む人々、神を求める不安を抱く人々、善意のあるすべての男女と共に、平和が支配する新しい世界を構築するために、共に歩むべき道なのです。
これが、私たちを鼓舞すべき宣教の精神です。小さな集団に閉じこもったり、「世界よりも自分たちが優れている」と感じたりしてはなりません。私たちは、すべての人に神の愛を捧げるよう召されている。そうすることで、違いを否定するのではなく、それぞれの個人的な歴史と、あらゆる民族の社会的・宗教的文化を尊重する一致が実現するからです。
兄弟たち、姉妹たち、今こそ愛の時です! 私たちを兄弟とする神の愛は、福音の核心であり、私の先任者であるレオ13世とともに、今日、私たちは自問することができます―「この基準が世界中に広まったら、あらゆる争いはすぐに止み、平和が戻ってくるのではないか?」(回勅「Rerum novarum」21項)。
聖霊の光と力によって、神の愛に根ざし、一致のしるしとなる教会を築き上げましょう。世界に向かって腕を広げ、御言葉を宣べ伝え、歴史に揺さぶられ、人類の調和の酵母となる宣教する教会を。
共に、一つの民として、皆兄弟姉妹として、神に向かって歩み、互いに愛し合いましょう。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=聖書の翻訳は「聖書協会・共同訳」による)