◎教皇連続講話「聖霊について」⑯ 教会での説教を構成するのは「福音」と「聖霊の支え」 (2024.12.4 Vatican News Francesca Merlo) 教皇フランシスコは4日の水曜恒例一般謁見で「聖霊について」の連続講話をお続けになり、今回は、「教会での説教」を取り上げ、説教においては福音の内容と聖霊の導きに頼るように促された。 講話で教皇はまず、聖ペトロが、使徒たちのことを「聖霊に導かれて、あなたがたに福音を告げ知らせた人たち」(ペトロの手紙1・1章12節参照)と定義されている、と指摘。「この表現にはキリスト教の説教を構成する2つの要素、すなわち『福音である内容』と『聖霊である手段』が示されています」と説かれた。 そして、「内容」に関して、教皇は新約聖書における「福音」に触れ、「この言葉には、主に2つの意味があります… 4つの正典福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)のいずれかを指す場合、この言葉は『イエスがこの世で宣言された、良い知らせ』を意味しますが、最初の復活祭の後、『イエスに関する良い知らせ、すなわちキリストの死と復活という過ぎ越しの神秘』という新たな意味を持つようになったのです」と語られた。 さらに教皇は「これは、ペトロが『私は福音を恥とは思いません。福音は、信じるすべての人を救う神の力です』と記した際に『福音』と呼んだものと同じです」とされ、「イエスとその後継者である使徒たちの説教には、福音から派生するすべての道徳的義務が含まれています。それは、十戒から『新しい』愛の戒めまでです」と述べられた。 だが、「もし私たちが、使徒パウロが非難した過ち、すなわち『恵みよりも律法』を、『信仰よりも行い』を優先させる、という過ちに陥りたくないなら、キリストが私たちのためにしてくださったことの宣言から常に新たに始める必要があります」とされ、「この理由から、私は使徒的勧告『福音の喜び』において、この2つのうちの最初のもの、ケリュグマ(kerygma)、すなわち『宣言』について、多くのことを強調しています。あらゆる道徳的適用はこれに依存します」と説かれた。 次に、「手段」について、教皇は「ケリュグマを考える際には、それを宣言する手段を念頭に置かなければなりません」と指摘。福音は「聖霊によって」宣べ伝えられなければならず、「聖霊の油注ぎによって説教することは、考えや教義とともに、人生と深い信念を伝えることを意味するため、説得力のある知恵の言葉ではなく、精神と力の証によって伝えることになります」と語られた。 そして、説教をする際には、10分以内に「一つの考え、一つの感情、そして行動への一つの呼びかけ」を伝えるよう促され、「8分を過ぎると説教は散漫になり、誰も理解できなくなる。決して10分を超えてはなりません。これは非常に重要です」と述べられた。 続けて教皇は、「説教をする人は、説教によってキリストを宣べ伝えるために、聖霊の恵みを祈らなければなりません。また、自分自身ではなく、主イエスを宣べ伝えなければなりません。自分自身を宣べ伝えるのを抑えることは、自分自身が進め、自分の名前と結びついた司牧的な取り組みを常に優先するのではなく、求められれば喜んで共同体的な取り組みに協力したり、服従によって委ねられた取り組みに協力したりするということも意味します」と注意された。 講話の最後に、教皇は、「聖霊が、教会に、現代の人々に福音を効果的に伝える方法を教えてくださるように」と祈られた。 (翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二) ツイート
(2024.12.4 Vatican News Francesca Merlo) 教皇フランシスコは4日の水曜恒例一般謁見で「聖霊について」の連続講話をお続けになり、今回は、「教会での説教」を取り上げ、説教においては福音の内容と聖霊の導きに頼るように促された。 講話で教皇はまず、聖ペトロが、使徒たちのことを「聖霊に導かれて、あなたがたに福音を告げ知らせた人たち」(ペトロの手紙1・1章12節参照)と定義されている、と指摘。「この表現にはキリスト教の説教を構成する2つの要素、すなわち『福音である内容』と『聖霊である手段』が示されています」と説かれた。 そして、「内容」に関して、教皇は新約聖書における「福音」に触れ、「この言葉には、主に2つの意味があります… 4つの正典福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)のいずれかを指す場合、この言葉は『イエスがこの世で宣言された、良い知らせ』を意味しますが、最初の復活祭の後、『イエスに関する良い知らせ、すなわちキリストの死と復活という過ぎ越しの神秘』という新たな意味を持つようになったのです」と語られた。 さらに教皇は「これは、ペトロが『私は福音を恥とは思いません。福音は、信じるすべての人を救う神の力です』と記した際に『福音』と呼んだものと同じです」とされ、「イエスとその後継者である使徒たちの説教には、福音から派生するすべての道徳的義務が含まれています。それは、十戒から『新しい』愛の戒めまでです」と述べられた。 だが、「もし私たちが、使徒パウロが非難した過ち、すなわち『恵みよりも律法』を、『信仰よりも行い』を優先させる、という過ちに陥りたくないなら、キリストが私たちのためにしてくださったことの宣言から常に新たに始める必要があります」とされ、「この理由から、私は使徒的勧告『福音の喜び』において、この2つのうちの最初のもの、ケリュグマ(kerygma)、すなわち『宣言』について、多くのことを強調しています。あらゆる道徳的適用はこれに依存します」と説かれた。 次に、「手段」について、教皇は「ケリュグマを考える際には、それを宣言する手段を念頭に置かなければなりません」と指摘。福音は「聖霊によって」宣べ伝えられなければならず、「聖霊の油注ぎによって説教することは、考えや教義とともに、人生と深い信念を伝えることを意味するため、説得力のある知恵の言葉ではなく、精神と力の証によって伝えることになります」と語られた。 そして、説教をする際には、10分以内に「一つの考え、一つの感情、そして行動への一つの呼びかけ」を伝えるよう促され、「8分を過ぎると説教は散漫になり、誰も理解できなくなる。決して10分を超えてはなりません。これは非常に重要です」と述べられた。 続けて教皇は、「説教をする人は、説教によってキリストを宣べ伝えるために、聖霊の恵みを祈らなければなりません。また、自分自身ではなく、主イエスを宣べ伝えなければなりません。自分自身を宣べ伝えるのを抑えることは、自分自身が進め、自分の名前と結びついた司牧的な取り組みを常に優先するのではなく、求められれば喜んで共同体的な取り組みに協力したり、服従によって委ねられた取り組みに協力したりするということも意味します」と注意された。 講話の最後に、教皇は、「聖霊が、教会に、現代の人々に福音を効果的に伝える方法を教えてくださるように」と祈られた。 (翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)