(2024.11.27 バチカン放送)
教皇フランシスコは27日の水曜恒例一般謁見で、「聖霊について」の連続講話を続けられ、今回は「聖霊の実である喜び」について話された。
教皇の連続講話の要旨は次の通り。
**********
「聖霊の聖化とカリスマの恵み」について話した後、今日は聖霊の働きがもたらすもの、「聖霊の実」について考えたいと思います。
使徒聖パウロは霊がもたらす様々な実を、ガラテヤの信徒への手紙の中で次のように語っています―「霊の結ぶ実は愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラテヤの信徒への手紙5章22節)。
カリスマとは異なり、聖霊はその実を、教会の益のために、誰にでも、いつでも与えます。霊の実は、恵みと自由による協力の結果です。これらの実は、「愛によって働く信仰」(ガラテヤの信徒への手紙5章6節)を通し、常に人の創造性を、時に驚くべき、喜びにあふれた方法で表します。教会の中で、皆が必ずしも、使徒的、預言的、福音的ではないかも知れません。しかし、皆が区別なく、慈愛に満ち、忍耐強く、謙遜で、平和のために働く人でいることはでき、またそのようにあるべきです。
使徒パウロが語った「霊の実」で、特にそのうちの一つ、「喜び」に注目しましょう。私は使徒的勧告『福音の喜び』の冒頭に、このように述べました―「福音の喜びは、イエスに出会う人々の心と生活全体を満たします。イエスの救いを受け入れる者は、罪と悲しみ、内面的な虚しさと孤独から解放されるのです。喜びは、常にイエス・キリストとともに生み出され、新たにされます」。
聖霊の実である「喜び」は、他のすべての人間的な喜びと同様に、ある種の充足感、充実感を伴い、それがいつまでも続くことを願わせます。しかし、私たちの経験からも分かるように、その通りにはいきません。それは、若さ、健康、体力、友情、愛のように、この世のすべてのものはすぐに過ぎ去るからです。これらがすぐに過ぎ去らないとしても、ある時点から、それが十分でない、と感じたり、退屈を与えたりさえします。それは「主よ、あなたは私たちをあなたのために造られました。ですから、私たちの心はあなたの中に憩うまでは、安らぐことはないのです」と、聖アウグスティヌスが神に向かって言った通りです。
「福音の喜び」は、他の喜びと異なり、日々新たにされ、他者にも伝わっていくものとなります。「私たちを閉鎖性や自己中心性から救い出すのは、神の愛との出会い、あるいは再会のみです。この出会いは幸せをもたらす友情になります… そこにこそ、福音宣教の泉があります。なぜなら、人生の意味を取り戻すその愛を受け入れた人は、他の人に伝えずにはいられないからです」(『福音の喜び』8項)。
「聖霊の実である喜び」の特徴は2つあります。それは、時間による消耗は避けられませんが、他者と分かち合いながら、増やすことができる、という点です。
今から5世紀前、ローマにフィリポ・ネリという聖人がいました。喜びの聖人という名を残した人です。聖フィリポは、彼のオラトリオの貧しいく見捨てられた子どもたちに、「息子たちよ、明るくおやりなさい。遠慮や陰気さはいりません。ただ罪は犯してはいけません」「できることなら、善良でいてください」と言っていました。聖フィリポが神に対して持っていた愛は、あまりの大きさに胸が破裂しそうなほどでした。彼の持つ喜びは、文字どおり、霊の実だったのです。聖フィリポは1575年の聖年を経験し、7つの教会の巡礼などの実践を通して豊かなものとしました。彼はその時代、喜びを介した真の福音宣教者でした。
「福音」という言葉は、喜ばしき知らせを意味します。それゆえに、もったいをつけたり暗い顔でそれを告げず、隠された宝や貴重な真珠を見つけた人の喜びをもって告げなければなりません。聖パウロがフィリピの教会の信徒に向けた勧めを思い起しましょう。「主にあって、いつも喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心をすべての人に知らせなさい」(フィリピの信徒への手紙4章4-5節)。
(編集「カトリック・あい」=聖書の引用の日本語訳は「聖書協会・共同訳」に改めました)