教皇フランシスコは21日の水曜恒例一般謁見で、「聖霊について」の連続講話を続けられ、今回は、ヨルダン川でイエスが洗礼を受けられた際、聖霊が降ったことをテーマとして取り上げられた。
教皇は「イエスの受洗は、啓示と人類の救いの歴史において、極めて重要な瞬間を象徴するもの」と語られ、それによって「主は、父の愛する子であることを明らかにされ、公の宣教活動の初めに、聖霊によって油を注がれたからです」と強調された。
そして「救世主、司祭、預言者、王として、イエスは、その神秘的な集まりである教会のメンバーである私たちに、聖霊を授けられるのです」と語られ、洗礼において、「私たち一人一人は、『キリストの命に与るしるし』として、また『キリストの救いの存在の香りを世界に広める使命を与えられた者』として、聖香油を注がれるのです」と強調。
講話の最後に、「私たちが日々この聖香油を忠実に育み、出会うすべての人に『キリストのかぐわしい香り』」を広めるように、と願われた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
(2024.8.21 バチカン放送)
教皇の連続講話の要旨は次のとおり。
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今日は、ヨルダン川での洗礼においてイエスに降り、教会であるイエスの体を通して広められる聖霊について考えてみましょう。マルコ福音書には、イエスの洗礼の場面がこのように描かれています―「その頃、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水から上がっているとき、天が裂けて、霊が鳩のようにご自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたは私の愛する子、私の心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」(1章9-11節)。
この瞬間、父と子と聖霊の三位がヨルダン川のほとりで一堂に会されました。御父は声をお聞かせになり、聖霊は鳩のようにイエスに降りられ、そしてイエスは御父からご自身の「愛する子」として宣言されたのです。これは啓示と救いの歴史にとって極めて重要な瞬間でした。
イエスの洗礼について、すべての福音記者が語っていますが、その出来事の重要さはどこにあるのでしょうか。答えは、このすぐ後、ナザレの会堂でイエスが語られた言葉の中に見つけることができます。イエスはヨルダン川での出来事に明らかに触れながら、次のように語られました―「主の霊が私に臨んだ… 主が私に油を注がれたからである」(ルカ福音書4章18節)。
ヨルダン川で、神なる御父は、イエスに聖霊を注がれ塗油され、イエスを王、預言者、祭司として聖別されました。旧約聖書では、王や、預言者、祭司は、香り高い油を注がれています。キリストの場合、物質的な油の代わりに、霊的な油、すなわち聖霊を注がれました。象徴の代わりに、本物を注がれたのです。
イエスは受肉の瞬間から聖霊に満たされていましたが、それは譲渡できない「個人的な恵み」でした。しかし、今や、使命のために聖霊の恵みに満たされたイエスは、ご自身の体である教会の頭(かしら)として、教会に聖霊の賜物をめぐらせます。それゆえに、教会は新しい「王の、預言的、祭司的な民」なのです。ヘブライ語の「メシア」、古代ギリシャ語の「キリスト」は、共に、油を注がれた者を意味します。教父たちは、「キリスト者」を「キリストに倣う者として、油を注がれた者」と説明しました。
聖書の詩編に、大祭司アロンの頭に注がれ、衣の襟にまで垂れる、かぐわしい油について歌っている箇所があります(133章2節参照)。兄弟が共に座っている喜びを表すために用いられたこの詩的なイメージは、キリストと教会において霊的かつ神秘的な現実となりました。私たちの頭であるキリストは大祭司、聖霊はかぐわしい油、教会はその油が広がるキリストの体です。
聖パウロは、コリントの信徒への手紙で「私たちは神に捧げられるキリストのかぐわしい香りだからです」(2・2章15節)と書いています。残念ながら、キリスト者はしばしば、『キリストのかぐわしい香り』でなく、『自分自身の罪の悪臭』を、まき散らしています。そうすることで、一人ひとりが自分の置かれた環境で、この世におけるキリストのかぐわしい香りとなる、という崇高な召命を実現する努力をそらすことになってはなりません。
キリストの香りは、「霊の結ぶ実」から発します。「霊の結ぶ実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤの信徒への手紙5章22節)。これらの実を育てるように努力するなら、私たちが気付かないうちに、誰かが私たちの周りにキリストの霊の香りを感じるようになるでしょう。
(編集「カトリック・あい」=聖書の日本語訳は「聖書協会・共同訳」に改めました。またバチカン放送に聖書の引用箇所に誤りがあったので修正してあります)