(2024.6.19 Vatican News Deborah Castellano Lubov)
教皇フランシスコは19日の水曜恒例一般謁見で「聖霊について」の連続講話を続けられた。今回は旧約聖書の「詩編」をテーマに考察され、イエスがなさったように詩篇を祈ることで「祈りのシンフォニー」に参加するよう、信者たちに進められ、「詩篇を私たちの祈りとし、私たちのものとし、詩編とともに祈ることが必要です」と強調された。
教皇は、2025年の聖年の準備として、2024年を祈りの年と宣言されたことから、講話を始められた。
以下、バチカン放送による講話の要旨(編集「カトリック・あい」)
来年、2025年の聖年の準備として、私は今年2024年を「大きな祈りの交響曲」とするよう提案しています。今日の講話を通して、教会がすでにもっている祈りの交響曲を思い出しましょう。聖霊によって編まれた交響曲、それは「詩編」です。
それぞれの交響曲には様々な「動き」があるように、詩編には、個人の、あるいは民の合唱の形をとった賛美、感謝、嘆願、嘆き、語り、叡智に満ちた考察など、様々な種類の祈りがあります。
詩編は新約聖書で特別な位置を占めています。かつて新約聖書と詩編を一緒に掲載した書があり、今も存在しています。全詩編が、また各詩編の全体が、キリスト者によって繰り返し唱えられたわけではありませんし、現代の人々にとってはなおさらです。今の人々は、ある歴史的状況やある種の宗教的メンタリティーを「もう自分たちのものではない」と考えていますが、それは彼らが詩編からインスピレーションを受けていないことを意味しません。古い掟の多くの部分のように、啓示のある期間、段階において、人々は詩編と結ばれているのです。
私たちに最も受け入れられている詩編は、イエスや、マリア、使徒たち、またすべての時代のキリスト者たちが祈っていたものです。これらの詩編を唱えるとき、神は「諸聖人の交わり」という偉大な「オーケストラ」によってそれをお聴きになります。「ヘブライ人への手紙」によれば、イエスは「御覧ください。私は来ました… 神よ、御心を行うために」という詩編の一節を胸に世に来られ( ヘブライ人への手紙10章7節、詩編40章9節参照)、「ルカ福音書」によれば、「父よ、私の霊を御手に委ねます」という詩編の言葉と共にこの世を去られました(ルカ福音書23章46節、詩編31章6節参照)。
新約聖書において詩編が使われたことに、教父たちや全教会も倣った。それによって、詩編はミサと教会の祈りにおいて要素として定着しました。しかし、私たちは過去の遺産だけで生きてはいけなません。詩編を「私たちの祈り」とする必要があります。詩編は、祈りながら自分のものとし、私たち自身が「詩編作者」となるために書かれたといえます。
もし、自分の心に語りかける詩編が、あるいはその一節があるなら、それを一日の中で繰り返し、祈るのは素晴らしいことです。詩編は「オールシーズン」の祈りです。あらゆる気持ちや必要が、詩編の言葉を祈りに変えます。他の祈りと異なり、詩編は繰り返すことで効力を失わず、むしろそれを強めます。なぜなら、それは神の霊から来るものであり、信仰をもって読むたびに神に「刺激を与える」ものだからです。
私たちが良心の呵責や罪に苦しめられているなら、ダビデと共に、こう繰り返しましょう―「神よ、私を憐れんでください。慈しみをもって。深い憐みをもって」(詩編51章3節)。また、私たちが神との強い絆を表したいときは、こう言いましょう―「神よ、あなたは私の神。私はあなたを捜し求め、私の魂はあなたを渇き求めます。あなたを待って、私の体は、乾ききった大地のように衰え、水のない地のように渇き果てています」(詩編63章2節)。そして、恐れや不安に襲われた時には、この素晴らしい言葉が私たちを救いに来てくれます。「主は羊飼い… 死の陰の谷を行くときも、私は災いを恐れない」(詩編23章1.4節)。
詩編は、私たちの祈りが、「私にください、私たちにください」という単なる要求の繰り返しにならないように助けてくれます。「日ごとの糧」を願う前に、「み名が聖とされますように。み国が来ますように。み心が天に行われるとおり地にも行われますように」という「主の祈り」から学びましょう。詩編は、賛美、祝福、感謝の祈りといったように、自分だけを中心にすることのない祈りに心を開かせてくれます。そして、賛歌の中に被造物を関わらせることで、私たちに全被造物の声を代弁させてくれるのです。
聖霊は、花嫁である教会に、神なる花婿に祈るための言葉を贈ってくださいました。さらに、聖霊は、それを今日の教会に響かせるように、また、聖年を準備するこの年を祈りの交響曲とするように助けてくださいます。