(2021.12.1 Vatican News Christopher Wells)
教皇フランシスコは1日の水曜恒例の一般謁見中の「聖ヨセフについて」の講話を続けられ、世界の婚約中のカップルすべてに対し、「恋に落ちることの素晴らしさを超えて、時の試練に耐えることのできる成熟した愛に向かって進む」カップルの模範として、「正義の人であり、マリアの婚約者」ー聖ヨセフを示された。
バチカン放送(日本語課)による、教皇の講話の要旨次の通り。
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聖ヨセフにまつわる出来事は、聖書の正典には含まれない「外典(アポクリファ)」の多くのエピソードに語られ、それは美術や様々な信心の場に影響を与えてきました。これらの文書は、正典の福音書に聖ヨセフについての記述が少ないことを補いたい、という当時の人々の信心から来たものです。しかし、聖書の福音書は、キリスト教の信仰と生活に本質的なすべてを与えてくれます。
福音記者マタイは、ヨセフを「正しい人」と定義しています。マタイは次のように述べていますー「イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが分かった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表沙汰にするのを望まず、ひそかに離縁しようと決心した」(マタイ福音書1章18-19節)。
このヨセフの態度を理解するには、古代イスラエルの結婚のしきたりを振り返る必要があります。当時、婚姻は二つの段階にはっきりと分かれていました。最初は、正式な婚約の段階であり、特に女性は父の家にまだ一年間暮らし、共に住んでいない状態でありながらも、男性婚約者の「妻」と見なされていました。第二は、花嫁が花婿の家に移る段階です。お祝いの行列が行われ、婚姻は完了します。
こうしたしきたりにおいて、「二人が一緒になる前に」マリアが身ごもったことは、マリアが姦淫で訴えられることを意味していました。そして、その罪は、古い律法によれば、石打ちの刑によって罰せられなければならなかったのです(参照 申命記22章20-21節)。
福音書は、ヨセフは敬虔なイスラエル人として律法のもとにある「正しい人」でした。しかし、ヨセフの中にはマリアへの愛と信頼があり、それゆえに、立法を守りつつ、マリアの尊厳をも守るために「表沙汰にするのを望まず、ひそかに離縁しようと決心した」ーこうして、ヨセフは裁きと復讐ではなく、目立たない道を選んだのです。私たちは誰に対しても、少しでもうまくいかないことがあるとすぐに騒ぎ出しますが、ヨセフは沈黙しました。何という聖性でしょう。
福音記者マタイはすぐ次のように続けますー「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れずマリアを妻に迎えなさい。マリアに宿った子は聖霊の働きによるのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである』」(マタイ福音書1章20-21節)。
深く考えるヨセフに、夢を通して神の声が介入し、彼が考える正義よりもさらに偉大な意味を啓示されました。私たちにとっても、正しい夫婦生活を育みながら、同時に神の助けの必要を感じることは、いかに大切なことでしょう。神は私たちの世界を広げ、人生のある状況について、もっと広い、異なる視点から見つめさせてくださいます。多くの場合、自分が陥った状況に囚われていても、そこに隠されていた神の御摂理が次第に形をとり、苦しみの意味を照らしてくれるようになるのです。
マリアとヨセフは婚約者として、おそらく自分たちの生活や将来に夢や希望を抱いていたでしょう。神が彼らに突然介入されたことは、予想もしない出来事でしたが、二人とも最初は苦労しながらも、目の前の現実に心を開きました。
私たちの人生は、想像どおりにいかないことが多い。特に愛情関係においては、恋愛の段階から成熟した愛に移るのに、努力が必要です。愛するとは、相手や生活が自分の理想に一致することを要求するものではありません。愛するとは、与えられた人生に対し責任を負うことを、自由に選択することです。自覚をもってマリアを選んだヨセフは、私たちに大切なことを教えてくれています。
キリスト者の婚約者たちは、恋愛の論理から成熟した愛に移る勇気を持つ愛を証するように求められています。夫婦の愛は人生を通して毎日成熟を続ける。ロマンチックなものが多少消えても、愛がなくなるのではありません。そこには成熟した愛があります。たとえ喧嘩をすることがあっても、その日のうちに仲直りすることが大切です。成熟した愛は、努力を要しますが、私たちはこの道を歩むべきなのです。
聖ヨセフよ、
あなたはマリアを自由をもって愛し、自分の思い描くものを捨て、現実に心を開きました。
神が与える驚きを受け取ることができるよう、私たち一人ひとりを助けてください。
自分を守るべき、予想外の物事としてではなく、真の喜びを秘めた神秘として、人生を受け入れることができますように。
すべてのキリスト者の婚約者たちが、慈しみと赦しだけが愛を可能にする、との自覚のうちに、喜び徹底を得ることができるよう助けてください。
アーメン
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=聖書の引用は、「聖書協会・共同訳」を使用、バチカン放送翻訳の「である」調は、教皇のお話しのニュアンスを伝えるために「ます」調にしました)