(2022.4.20 Vatican News Benedict Mayaki, SJ)
教皇フランシスコは20日、新型コロナウイルスの大感染が始まって以来約2年ぶりに聖ペトロ広場に信徒たちを集めての水曜恒例の一般謁見を再開され、「老年の意味と価値について」をテーマとする連続講話の中で、「年配者に敬意を払うこと」が大事であることを強調、若者に人生とそれぞれの段階について効果的な教育をするよう勧められた。
教皇はまず、「神の言葉を通して、私たちは、混乱と落胆、喪失と自暴自棄、幻滅と疑惑で特徴づけられる年配者の弱さの経験を見てみましょう」とされた。
そして、「このような弱さの経験は、人生のいかなる段階でもなされるもの。老年においては、印象が薄められ、煩わしさを感じることもありますが、若者や子供の時に受けた深い傷は、不当と反逆の感覚、反発を引き起こします」とされ、「老年期の傷は、深い傷であっても、『人生は否定するようなものではない。既にここまで生きたのだから』と受け止めるのです」と語られた。
*無償の愛、啓示、敬意
また教皇は「愛は伝えるもの。それは、私たちの前にある人生に注がれるのと同じ力で、過去の人生に戻ることはありません… したがって、愛を無償で与えることを、すべての親と年配者が承知しています」とされ、「神の啓示は、前を行く人々に敬意を示すことで彼らの愛に報いる道を開きます。年配者に対する敬意は『あなたの父と母を敬いなさい』という神の戒めによっても確認されています。さらに、尊厳ーすべての人の人生を尊重することーは、本質的に敬意と同等です」と説かれ、次のように述べられた。
「それは自分の父母についてだけのものではなく、父母と祖父母の代についてのものでもあります。祖父母が世を去るのはまだ後になり、複数の他の世代と長く共生する時と空間を作る可能性があるからです」
*敬意を欠くことの問題は
教皇はさらに、「敬意ある素晴らしい愛の表現」について、「繊細さと愛情、優しさと尊敬に代わる自信過剰が、粗野と悪態に変わる時」に敬意が欠けることになる、とさら、「病人を世話し、自分だけでは生きていけない人々を支援するような振る舞い、生計の保証が、敬意を欠く可能性があります。そのようなことは、どこでも、家庭やオフィスでさえも起こり得ます。弱さが非難され、それがその人の過ちであるかのように批判され、その人の当惑と混乱が、嘲笑と攻撃の的になるときに」と警告された。
*若者が年配者に敬意を払うこと
そして「考えられないような自信過剰から、それが間接的なものであっても、年配者を見下したり、軽蔑したりする態度」を若者たちに勧めるようなことのないように注意され、「年配者に対する敬意を欠いた態度は、私たち皆に対して敬意を欠くことにつながります」と強調。「神の前で復習を叫ぶ」ような敬意を欠いた行為を非難するシラ書の一節を思い起こされた。
さらに、酒を少しばかり飲み過ぎて意識を失う老いたノアのことを思い起こされ、息子たちが、父を起こして困惑させないように、敬意をもって顔を背け、覆い隠したが、この場面は「とても素晴らしく、年配者の名誉についての全てを語っています」と述べられた。
*年配者への敬意を育てる
また教皇は、豊かな社会が年配者のために物質的なサービスを提供することができても、「それでもなお、壊れやすく、未熟なものであるように見える『敬意ある愛の特別な形』を回復するのは容易でありません」と指摘。
そのような愛を増進させるために、「『愛の文明』の形に敏感な人々への、より充実した社会的、文化的な支援をー人生と様々なその段階について若者たちを教育するやり方を変革することも含めてー行うよう、全ての人に強く促された。
そして最後に教皇は、「人生を歩んできた人に敬意を払うことも含めて、『人への愛』は、年配者に対するだけのものではなく、「その最上の資質を受け継ぐ若者たちに輝きをもたらす熱意」と言える、と、今回の講話を締めくくられた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)