◎教皇連続講話「第二バチカン公会議を学び直す」⑱『典礼憲章』3 私たちを神に近づける「典礼の儀式、しるし、象徴」の重要性

Wednesday General Audience  (@Vatican Media)
(2026.6.3  Vatican News   Isabella H. de Carvalho)Pope Leo XIV at General Audience

   教皇レオ14世は、3日の聖ペトロ広場での水曜恒例一般謁見で、連続講話「第二バチカン公会議を学び直す」を続けられ、今回は前回に続いて「典礼憲章」を取り上げ、「私たちを神に近づけるための典礼の儀式、しるし、象徴」の重要性を強調された。

 講話の初めに教皇は、「忙しさと喧騒に彩られた私たちの慌ただしい生活において、典礼の儀式とそのしるしや象徴は、私たちをキリストとその愛へと近づけることで、立ち止まり、内なる霊的生活とつながる助けとなります」と語られた。

 そして、「その儀式の荘厳かつ簡素なリズムは、私たちの狂乱的な活動を中断させ、本質的なものへと私たちを導いてくれる… そうして私たちは、”生産性の計算”に導かれることのない行動の新たな次元、そして時間と空間の新たな体験を発見するのです。典礼において、私たちは無償の論理を体験し、心を再生させる一息を見つけ、神の恵みが私たちに先立って与えられていることを認識し、聖霊が宿るリズムの中で生きることを学ぶのです」と説かれた。

 典礼憲章は、典礼を現地語で行うことを認め、信徒の積極的な参加を奨励するなど、カトリック教会の典礼に重要な変化をもたらした。

*私たちは”沈黙の傍観者”であってはならない

 この点について、教皇は、公会議が―こうした変革を推進した典礼運動を基盤として―「典礼の儀式が、秘跡の神秘を単に『外側から覆うものに過ぎず、恣意的な儀式の寄せ集め』ではなく、『神の賜物が私たちに届くための教会的な媒介』ということを浮き彫りにするのに役立ちました… 典礼の儀式は典礼の行為に形を与えるものであり、それによって、『イエス・キリストを通して神の臨在を味わうことができるような霊的な感性』を私たちの中に生み出すことで、私たちの生活にも形を与えるのです」と指摘。

 だが、こうしたことが実現するのは、「私たちが全身全霊、体、心、魂をもって、典礼に積極的に参加し、『よそ者や沈黙する傍観者』になることを避ける場合に限られます」と注意された。

 また教皇は、聖なる典礼を通して、私たちは「神の御言葉に耳を傾け、感謝と礼拝を捧げ、兄弟愛による分かち合いと教会的な交わりの中で形成されていく」とされ、「それによって、私たちは、異なる人々から成る一つの集まりであり、同じ信仰によって結ばれていることを認識するに至るのです」と説かれた。

 さらに、「典礼は、明確に定められた動作と祈りの連なりから成っており、それが、時に、私たちの持つ自発性への個人的な傾向と対立することもある… だが、その論理は、自由を硬直した枠組みの中に閉じ込めることではなく、むしろ本質へと私たちを導くことによって、内なる霊的な次元に私たちをつなぐことにあります」と述べられた。

*「しるし」と「象徴」の重要性

 続いて教皇は、「典礼のしるしと象徴」について言及され、「これらは典礼の儀式と密接に絡み合い、人間の聖化を支える助けとなり、また創造と人間の文化に基盤を置きます… 『しるし』と『象徴』はしばしば同義語として使われますが、実際には『しるし』は単なる一つの概念であるだけでなく、意味と価値の体系全体を指し示すときに、『象徴』となります」とされ、例えば、「私たちは、聖水を振りかけられるとき、洗礼で受けた賜物への自覚と、キリストにおける新しい命への献身が、再び呼び覚まされるのです」と駆られた。

 また、「聖書に描かれているように、『水』のしるしは極めて象徴的です。創造の始まりから大洪水へ、紅海の横断からヨルダン川へ、そしてキリストの脇腹から流れ出る水に至るまで、水は、キリストの死と復活への浸礼の秘跡的なしるしとなります」と指摘。

 さらに教皇は、「象徴とはむしろ実践的なものであり、何よりもまず、『ひざまずく』、『平和の挨拶を交わす』といった行為、あるいは、各秘跡を構成する行為です… そして何よりも、象徴には独自の実行的かつ変容的な次元がある。それらは、象徴を構成する物質的な要素に対しても、またそれらに触れる人々に対しても作用し、帰属意識を生み出し、心と精神に響き、真の教会的な関係を築き上げるのです」と強調された。

 

 

*神との出会いに開かれた心を再び呼び覚ます

 そして教皇は、講話の結びに、すべての人に対し、「典礼の儀式によって、自らを教育し、恣意性を排し、繊細な配慮をもって祝祭の美しさを大切にする」ように、と呼びかけられ、「適切な神秘解説を伴う、生き生きとした敬虔な典礼の体験こそが、すべての人の中に、神との出会いに開かれた心を再び呼び覚ます最良の手段。受肉の論理において、その出会いは、霊、魂、そして身体という全人格を巻き込むことによってのみ実現し得るのです」と語られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

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2026年6月3日