◎教皇連続講話「祈りについて」⑮「聖書は、神が祈る人と会われる場」

(2021.1.27 Vatican News Lydia O’Kane)

   教皇フランシスコは27日、水曜恒例の一般謁見で「祈りについて」をテーマとした講話を続けられた。

 その中で、教皇は、「神の御言葉」を私たちにもたらすために、私たち1人ひとりに向けて書かれた「聖書」の重要性について考察され、「聖典の言葉は、パピルス、羊皮紙、あるいは紙に閉じ込められたままにするために書かれなかった。『祈り、心に花を咲かせる人』に受け入れられるために、書かれたのです」と強調された。

(以下の続きは「バチカン放送(日本語課)」より)

 教皇は「これまで何度も耳にしたはずの聖書の一節が、ある日突然、意味を帯び、自分が置かれた状況を照らし始める、という体験を、多くの信者はしているでしょう」とされ、「祈りを通して、御言葉の新たな受肉ともいえることが起こります… 神の御言葉が世界にもたらされるように、私たち自身が御言葉を受け入れて守る『聖櫃』とならねばなりません」と説かれた。

 そして、「信者は、聖書を自分の哲学・倫理の正当化のために利用してはならず、聖書を『神との出会い場、聖霊の働きを待つ場』とする必要があります。『聖書を読む』ことは、『御言葉に自分自身を読まれること』なのです」と語られた。

 キリスト教には、聖書を用いた豊かな祈りの伝統があるが、教皇はその中で、「Lectio Divina(レクティオ・ディヴィナ=神の御言葉を聴く=「カトリック・あい」訳)」という霊的読書を通した祈り・観想の方法を紹介された。「Lectio Divina」では、まず聖書の一節を注意深く読むが、「テキストに対し『従順』な姿勢をもって、それ自体が意味することを理解するよう努めなくてはなりません」と注意された。

 次に、「聖書との対話」に進むが、御言葉が「観想と祈り」の動機となるように、「常にテキストに忠実に留まりながら、それが『何を語りかけているか』を自分自身に問いかけるようにしましょう… これはデリケートな段階ですが、主観的な解釈に引きずられることなく、私たち一人ひとりを、聖書のもとに一致させる『教会の生きた伝統』に従う必要があります」と述べられた。

 「Lectio Divina」の最後の段階は、観想。「ここで、言葉や考えは愛に場所を譲ることになります。それは、愛する者たちの間では、しばしば『沈黙のうちに見つめ合うだけで十分』なのと似ています… そうして聖書の一節は、観想に招く、一枚の鏡、一枚のイコンのように留まり続けるのです」と語られた。

 最後の教皇は、祈りを通して、「神の御言葉は私たちの中に住み、同時に、私たちも御言葉の中に住むようになります… 御言葉は私たちに力と平安をもたらし、危機にある時、平和を与え、混乱の時に、悪の攻撃から守るための愛と信頼を、心に保証します」と説かれ、「聖書は尽きることのない宝」として、「私たちが祈りを通し、聖書からより多くを汲み取ることができますように」と主に祈られた。

 

*参考*「Lectio Divina(レクティオ・ディヴィナ)で味わう主日の福音・B年」共同訳聖書実行委員会 (著), 日本聖書協会 (著), United Bible Societies (著), カトリック中央協議会 (監修, 監修)は新刊本、中古本でも入手できます。 日本聖書協会「『Lectio Divina』で味わう主日の福音・B年」がインターネットでもお読みになれます→

https://www.bible.or.jp/read/lectio_b_dl_1502.html (「カトリック・あい」)

(編集「カトリック・あい」)

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2021年1月27日