新年になって初めての一般謁見の講話で、教皇はまず、イエスが公生活で、人々の敵意や無理解を受け、困難な状況に置かれながらも、神を賛美していたことを思い起こされた。
イエスはガリラヤ地方の村々で神の御国を告げ、多くのしるしを行いながら、弟子たちと宣教を続けたが、一方で、イエスに対する人々の反感も高まっていた。そうした中で、イエスは御父に嘆きの声をあげるのではなく、「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、幼子たちにお示しになりました」(マタイ福音書11章25節)と、危機にあっても御父を賛美しておられた。
教皇は、「イエスは、この賛美の祈りを通して、御父が『天地の主』であると同時に『自分自身の父』であることに喜びを表されるとともに、小さき者たちが福音に心を開くよう計らってくださった御父を、おたたえになっているのです」と話された。
そして、「世界の未来と教会の希望には、『小さき人々』ー自分を他者よりも優れた者と見なさず、自らの限界と罪を自覚し、神なる御父のうちにすべての人を兄弟と認める人々ーの存在が常にある」とされ、「一見、失敗と思われる状況の中で神をたたえるイエスの祈りは、私たちにも、人生における敗北や、神の存在や働きをはっきりと感じられない状態を、違った視点で捉えることを教えてくれます」と説かれた。
さらに、教皇は「賛美は私たちのために必要なのか、それとも神のために必要なのか」と問いかけ、「私たちは、神を賛美しながら救われる。賛美の祈りとは『栄光のうちにおられる神を仰ぎ見る前から信仰をもって、愛している、清い心を持った人々の幸いにあずかること」(「カトリック教会のカテキズム」2639黄)だ、と語られ、この祈りを、「特に試練の時、人生の歩みの上り坂で捧げる」ように勧められ、神への賛美を通して「私たちの前に新しい視界が開けるでしょう」と話された。
また、アッシジの聖フランシスコの生涯を振り返っって、彼が「太陽の賛歌」を作った時、「健康を害していただけでなく、説教を始めた頃と何も変わらない世界や、相変わらず山積する問題に失望していてもおかしくない状況でした… しかし、そうした闇の中で、『ラウダート・シ・ミ・ショニョーレ(私の主よ、あなたは称えられますように)』と、神がお造りになったすべてのもののために神を賛美し、死に対してさえも、『姉妹なる死』と勇気をもって呼んだのです」と強調。
最後に、「聖人たちは、良い時もそうでない時も、常に神をたたえることを教えてくれます… 誠実な神の愛は、決して欠けることがありません」と語られた。
(編集「カトリック・あい」=引用された聖書の日本語訳は「聖書協会・共同訳」を使用)