◎教皇連続講話「悪徳と美徳」⑧「怠惰の試練に遭っても、信仰は価値を失わない」

Pope Francis holds his weekly General Audience

(2024.2.14 バチカン放送)

 教皇フランシスコは14日、バチカンのパウロ6世ホールでの水曜日恒例の一般謁見で、「悪徳と美徳」についての連続講話を続けられ、今回は「怠惰」をテーマに取り上げられた。

 講話の要旨は次のとおり。

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 「悪徳」の中でも、あまり語られずに見過ごされているものがあります。それは「怠惰」です。悪徳のリストにある「怠惰」は、しばしば「怠ること、怠けること」という意味にとられていますが、「怠り」は原因であるより、むしろ結果です。砂漠の教父たちは、その怠りの根底にあるものを「無気力」としています。

 「無気力」という意味での怠惰は、非常に危険な誘惑です。それに陥ると、あたかも死の願望に押しつぶされるかのようになり、すべてに嫌気がさし、神との関係さえも面倒になります。そうなるまでは心を温めていた聖なる行為も、すべて無駄に思えてしまうのです。

 「怠惰」は「白昼の悪魔」とも呼ばれます。それは私たちを真昼に捕えます。疲れが頂点に達している時、その先の時間は、変化のない、生きることが困難なものに見えてきます。

 実際、無気力にとらわれた人にとって、人生は意味ないもの、祈りは面倒なものになり、あらゆる闘いは無意味に感じられます。若い時に育んだ情熱も、今や不条理で、自分を幸福にし得なかった夢のように見えてきます。そうして、すべては放置され、「何も考えないこと」が唯一の出口に思われ、頭は空になってしまう。

 この危険な怠惰に対し、霊性の師たちは、様々な対策を考えていました。最も重要と思われるのは、「信仰の忍耐」ともいえる態度です。怠惰に打ちのめされている時、人の心はそこになく、現実から逃避するようになりますが、そのようにせず、自分の「今この時、この場所」に留まり、「ありのままの状況の中に、神の現存を迎え入れる勇気」を持つことが大切です。

 修道士たちは、「自分の修室こそが人生の最良の師だ」と言います。なぜなら、そこは具体的かつ日常的に、主との愛の物語を語る場所だからです。怠惰の悪魔は、「今ここにある素朴な喜び、現実に対する感謝に満ちた驚き」を壊そうと企んでいる。そして、「すべては虚しく、無意味だ」と私たちに思い込ませようとします。

 無気力にとらわれ、漠然とした不安に動かされて、これまでたどってきた善の道を、愚かにも放棄してしまう人たちがどれだけいることでしょう!怠惰との闘いは、肝要な戦いであり、何が何でも勝たなくてはなりません。

 怠惰との闘いを、聖人たちでさえも免れることはできませんでした。多くの聖人たちの日記には、すべてが「闇」に見える、信仰の夜の恐ろしい体験が書かれています。彼らは「信仰の貧しさ」を受け入れながら、忍耐のうちに、夜の闇を乗り越えることを私たちに教えています。

 聖人たちは、無気力に苦しめられている時、「なすべきことの量を少なく保ち、到達が容易な目標を設定」し、「誘惑に遭っても決して自分を見捨てることのないイエスに寄り頼み、無気力に抵抗し、耐え抜くように」と勧めています。

 怠惰の試練に苦しめられても、信仰が価値を失うことはありません。真の信仰、とても人間的な信仰を持つ人は、たとえ闇の中で視界を失っても、謙遜な心で、信じ続けるのです。

(編集「カトリック・あい」)

 

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2024年2月15日