◎教皇連続講話「山上の説教」③「『罪を悲しむ』とは、愛の神に背いたのを悲しむこと」

(2020.2.13 バチカン放送) 教皇フランシスコは12日の水曜恒例の一般謁見で、「山上の説教」(マタイ福音書5章1-11節)についての講話を続けられ、この日は「真福八端」の二つ目、「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる」(4節)を取り上げられた。 

 教皇はまず、「悲しむ人々は、幸いである」という教えの「悲しむ」という動詞は「受動的ではなく、自発的なもの、すなわち、自らが内面からの悲しみを感じている状態です」とされ、「キリスト教の霊性において中心的なこの態度は、砂漠の教父たちが“penthos”(内的な苦しみ、嘆き)と呼んでいたものであり、それは主との、また隣人との関係に自らを開くもの」と説かれた。

 そして聖書では、「悲しみ」は二つの意味を持ち、「一つは、死や他者の苦しみのために引き起こされる悲しみ、もう一つは、神や隣人を傷つけたことの苦しみ、罪のために流される涙です」と話され、「たとえば、『喪の悲しみ』は、辛い道ですが、一人ひとりのかけがえのない命やその聖なる価値に目を開くことを助けてくれるのです」と語られた。

 また、「罪を悲しむ」ことについて、教皇は「あやまちに憤慨することは、自分のプライドにすぎませんが、自分の行いや怠り、神への裏切りに対し、『私たちをこれほどまでに愛される神に背いた』と悲しむこと、これが罪の意識なのです」と話され、「イエスの前で悲しみ、新しい真の愛に目覚めたペトロ」と「自分のあやまちを受け入れられずに、死を選んだユダ」を比べられ、「罪を知ることは、神の恵み、聖霊の働きです」と強調された。

 さらに、「涙で洗われた顔は、言いようもなく美しい」というシリアの聖エフレムの言葉を引用された教皇は、「それは後悔の涙、悔悛の涙の美しさです」と話され、最後に、「愛に結ばれた悲しみを受け入れる者は幸いです。その人は、赦し、正される神の優しさ、聖霊の慰めを受けるでしょう」と説かれた。

(編集「カトリック・あい」)

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2020年2月14日