(2025.1.8 Vatican News Christopher Wells)

教皇フランシスコは8日、水曜恒例の一般謁見での講話で、「児童労働」という”惨禍”に焦点を当て、「子供たちが愛され、守られる代わりに、幼少期や夢を奪われ、搾取や疎外の犠牲になっている時、キリスト教徒が無関心でいることはできません」と訴えられた。
説教の初めに教皇は、「(12日の主の洗礼の祝日まで続く)降誕節は、子供たちが置かれている状況について考えるのにふさわしい時期」とされたうえで、8日と来週水曜15日の一般謁見での講話を「児童労働」という「惨禍」に捧げると予告され、「人工知能を生み出し、惑星間での活動を計画する現代において、世界は、いまだに『屈辱を受け、搾取され、致命的な傷を負わされる”幼少期”という惨禍』と向き合っていません」と嘆かれた。
そして、教皇は聖書に目を向けられ、「旧約聖書には『息子』という言葉が約5000回出てきます… そして詩編に『子供たちは神からの贈り物』と書かれていますが、残念ながら、その贈り物が常に尊重されているわけではありません」と指摘。「旧約聖書には『喜びの歌』だけでなく、『犠牲者の叫び』も出てきます。今日、どれほど多くの子供たちが、喉の渇きや飢えで命を落としているか、あるいは爆弾によって引き裂かれているかを考えてみてほしい」と信者たちに求められた。
続けて新約聖書に目を向けれた教皇は、そこに書かれた「キリストがお生まれになった時、ヘロデ王が幼子たちを虐殺したこと」を思い起こされ、「これは歴史の中で、様々な形をとって繰り返されてきた陰惨な悲劇のひとつ。イエスは、母マリアと聖ヨセフと共に、今日でも多くの人々に起こっている『外国で難民となるという悪夢』を経験せざるを得なかったのです」と指摘。
イエスは、公生活において、子供たちがご自分のところに連れて来られた時、「子供たちを『単なる物体』とみなす伝統を破られ、『子供たちを自分のもとに来させるように』と弟子たちに命じれらました… イエスは、子供たちを『大人たちが模範とすべき存在』としてお示しになったのです」と説かれた。
そして現代に話を戻された教皇は、「命を尊重しない経済活動によって労働を強いられ、搾取されている余りにも多い子供たちの窮状」に目を向け、「神の子であると自覚する者は、無関心でいることはできません。愛され、守られるべき私たちの小さな姉妹や兄弟たちが、その幼少期や夢を奪われ、搾取や疎外の犠牲になっていることを受け入れることはできません」と歌えられた。
最後に教皇は、「神が、私たちの心と思いに、思いやりと優しさをもたらし、すべての少年少女が年齢とともに知恵と恵みを得て、愛を受け、愛を与えることができるように」との祈りで講話を締めくくられた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)