◎教皇連続講話「イエス・キリスト、私たちの希望」②マリアの奉仕は神への希望の深さを示している

教皇フランシスコ 2025年1月22日の一般謁見 バチカン・パウロ6世ホール教皇フランシスコ 2025年1月22日の一般謁見 バチカン・パウロ6世ホール  (VATICAN MEDIA Divisione Foto)

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 今日は聖年のための連続講話、「イエス・キリスト、私たちの希望(Jesus Christ our hope)」を主題とする考察りましょう。

 ルカは福音書の冒頭で、ヨセフと婚約したが、まだ家族と暮らしているおとめマリアの質素な家にももたらされる「神の御言葉」の変容の力を示しています。

 神の偉大なお告げの使者、神の力をその名において意味するガブリエルは、旧約聖書で一度も言及されたことのない村、ナザレに遣わされました。当時、ナザレはガリラヤの小さな村にすぎず、イスラエル郊外のガリラヤ地方は、異教徒たちとの境界にあり、異教徒たちとの接触がある地域でした。そのナザレに、天使はマリアの心を驚かせ揺さぶる、前代未聞の形と内容のメッセージをもたらしたのです。

 「あなたに平和があるように」という伝統的な挨拶の代わりに、ガブリエルは、おとめマリアに「おめでとう」「喜びなさい」と呼びかけます。「喜べ」という言葉は、聖なる歴史において親しみある呼びかけです。預言者たちがシオンの娘にメシアの到来を告げるときに使う言葉だからです。捕囚が終わった民に対する神の喜びへの招きであり、主の生き生きとした働きと存在を感じさせるものです。

 さらに、神は、マリアを聖書の歴史上、それまで知られていない名前、「ケカリトメネ(神の恵みに満ちた者)」という愛情のこもった名で呼ばれています。この名は、「神の愛が、マリアの心にすでに宿り、これからも宿り続けること」を意味します。神は、マリアがいかに「恵みに満たされ」、いかに彼女を内的に彫り上げ、ご自身の傑作としたか、を語られているのです。

 この愛情あふれる呼び名は、神がマリアだけに与えられるもの。神はそのマリアを「恐れることはない」と、すぐに安心させられます。全能の神、「できないことは何一つない」神(ルカ福音書1章37節)はマリアと共におられます。

 ガブリエルは、おとめマリアにその使命を告げ、彼女から生まれる子の王権とメシア性に関して、聖書の多くの記述をマリアの心に響かせ、それを古くからの預言の成就として示しました。神の御言葉は、待望されたダビデにつながるメシアの母として、マリアを召されました。メシアは、人間的、肉としての方法ではなく、神的、霊的な方法で王となられ、その名は「イエス」、「神は救われる」という意味です。救いをもたらすのは、人ではなく、神だけであることを、すべての人に常に思い出させるものです。

 救い主の母となったことは、マリアを心の底から揺さぶります。知的なマリアは、様々な出来事を内面から読み取ることができました。自分に起きていることを理解し、識別しようとした。そして、マリアは、その開かれた繊細な心の奥深くで、「神に信頼するように」という招きを聞きました。

 マリアの心に、信頼の光が灯ります。神に委ね、従い、自分を明け渡します。マリアは、御言葉をその肉に受け、一人の女性、人間にこれまで託されたことのない、最大の使命に飛び込んだのです。マリアは自身を、奉仕のために差し出した。それは、奴隷としてではなく、父なる神の協力者としてでした。(イエスがぶどう酒の奇跡をなさった)カナの婚姻の場でそうであったように、マリアは神の恵みの賜物をつかさどる尊厳と権威に満ちています。

 救世主の母、私たちの母であるマリアに、神の御言葉に耳を開き、それを受け入れ、守り、私たちの心を、神がおいでになる聖櫃、人々を受け入れ希望を育てる家へと、変容させることを学びましょう。

(編集・翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

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2025年1月23日