(2025.4.9 バチカン放送)
教皇フランシスコが9日の一般謁見の聖年連続講話「キリスト、私たちの希望」のために用意された原稿が、同日、バチカン広報局から発表された。
この日の講話は、サブ・テーマ「イエスの生涯・出会い」の4回目として、マルコ福音書10章に記されたイエスと金持ちの男との出会いが取り上げられている。要旨は次の通り。
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今日は、福音書が語るもう一つのイエスの出会いを考察しましょう。ところで、今回イエスが出会う人には、名前がありません。福音記者マルコは、この人を単に「ある人」(10章17節)としています。この人は若い頃から戒律を守ってきましたが、自分の人生の意味をまだ見出せず、それを探し求めていました。熱心な見かけにかかわらず、実は心底まで決断できない人だったのかもしれません。
私たちの行為や、犠牲、成功を超えて、幸せであるために、本当に重要なものは、心に抱いているものです。ある船が海洋を航海するために、港を出ようとするとき、それが素晴らしい船で、優れた乗組員に恵まれていても、係留している錨を上げなければ、出航することはできません。つまり、この人は自分で立派な船を作りながら、港に停泊したままだったのです。
イエスが旅に出ようとされると、この人は走り寄って、ひざまずいて尋ねます。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」(マルコ10章17節)。
この人の言葉の動詞に注目しましょう。「受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。律法を守っても、自分は救われた、という幸福感と安心は得られなかったので、イエスに尋ねたのです。この人の言葉で印象的なのは、「無償」という概念がないことです。すべては義務によって得られるかのようです。すべては義務。永遠の命は、彼にとって、遺産のように、決まりごとを綿密に守ることで、権利として得られるものでした。でも、たとえそれが善い動機からだったとしても、このように生きたところで、愛が入る余地はどこにあるのでしょう。
いつもそうであるように、イエスは外見を超えて物事をご覧になります。この人がイエスの前で、申し分のない人となりを示したのに対し、イエスはそれを超えて内面を見つめられます。マルコが用いる動詞「見つめる」(マルコ10章21節)は大変意味のあるものです。イエスは私たち一人ひとりの内面をご覧になり、ありのままの私たちを愛してくださいます。では、イエスは、この人の中に何をご覧になったのでしょう。イエスが、私たちの中をご覧になる時、怠りや罪にもかかわらず、何をご覧になるのでしょう。イエスは私たちの脆さと同時に、「ありのままを愛されたい」という私たちの願いを見つめられます。
福音書は、イエスがこの人を見つめ、「慈しまれた」(マルコ10章21節参照)としています。イエスは、ご自分に従うように、と招く前から、この人を慈しまれたのです。イエスは、彼そのものを慈しまれたのです。イエスの愛は無償です。それはこの人がこだわっていた功績に準じる論理とは、正反対でした。このように、神の恵みによって、無償で愛されていることに気づく時、私たちは真の幸福を知ります。私たちの人間関係でも同じです。愛を買い求めたり、愛情を乞うなら、そのような関係は、決して私たちを幸せにしません。
イエスのこの人に対する招きは、彼の生き方と、神との関わり方を変えることでした。イエスは、私たちの中と同じように、彼の中に欠けたものがあることを見抜かれました。それは、私たちが心に抱く「愛されたい」という願望です。人間として、私たちは皆、一つの傷を持っています。その傷を通して愛が入ってくるのです。
この欠かけたものを補うために、承認や、愛情、評価を「買う」必要はありません。そうではなく、自分を重くしているすべてのものを「売り払い」、自分の心をもっと解放しなくてはならないのです。自分自身のために取り続けることをやめ、貧しい人々に与え、仕え、分かち合わなくてはならないのです。
最後に、イエスは、この人を孤立しないように招かれました。イエスは、ご自分に従い、絆の中に留まり、関係を生きるようにと、彼を招いたのです。そうすることで初めて、彼はその”匿名性„から抜け出せるでしょう。私たちが自分の名前を耳にすることができるのは、誰かが自分を呼んでくれる関係の中だけです。孤立し続けるなら、自分の名前を呼ばれることもなく、匿名の 「この人 」であり続けるだでしょう。おそらく、今日、私たちは自己充足的で個人主義的な文化の中にあるために、自分をもっと不幸に感じるのでしょう。それは、自分を無償で愛してくれる誰かから、自分の名前が呼ばれるのを聞くことがないからです。
この人は、イエスの招きに応えることなく、一人、留まりました。人生の”錨”が彼を港に留めていたからです。「悲しみ」とは、彼が旅立てなかったしるしです。「豊かさ」だと思っていることが、自分を妨げる重荷でしかないことがあります。希望とは、私たち皆がそうであるように、遅かれ早かれ、この人が自分を変え、”沖に出る”ことです。
兄弟姉妹の皆さん、悲しみ、決断できないでいるすべての人をイエスの聖心に委ねましょう。優しさをもって私たちを見つめ、心を動かされる主の愛に満ちた眼差しを、彼らが感じることができますように。
(編集「カトリック・あい」)