◎教皇聖年連続講話「イエス・キリスト、私たちの希望」⑦シメオン夫妻のように、外見を超えて物事を見つめる澄んだ眼差しを持とう

「主の奉献」 アルメニアのイコン「主の奉献」 アルメニアのイコン 

(2025.2.26  バチカン放送)

 入院・治療中の教皇フランシスコが26日の水曜恒例の一般謁見のために用意された聖年連続講話「イエス・キリスト、私たちの希望」の7回目のテキストが同日、バチカン広報局から発表された。

 今回の講話では、「I.イエスの幼少期」の考察として、「イエスの神殿への奉献」がテーマに取り上げられている。要旨は次のとおり。

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 今日は「「イエス・キリスト、私たちの希望」の素晴らしさを、イエスの神殿への奉献の神秘において観想しましょう。

 福音記者ルカは、イエスの幼少期のエピソードの中で、マリアとヨセフが主の律法とすべての規定に従順であったことを示しています。

 実際には、イスラエルでは子を神殿に奉献する義務はありませんでした。しかし、主の御言葉に耳を傾けながら暮らし、その御言葉に従いたいと望む人々は、これを実践すべき大切なこと、と考えていたのです。たとえば、預言者サムエルの母ハンナには子供がいませんでしたが、神は彼女の祈りを聞き、男の子を授けられました。ハンナはその子を神殿に連れて行き、永遠に主に捧げました。(サムエル記上・1章24∼28節参照)。

 ルカは、聖都エルサレムでのイエスの最初の礼拝行為を語っています。エルサレムは、イエスがそこに向かう決意を固められた時(ルカ福音書9章51節)から、ご自身の使命の完遂を目指す、宣教の旅全体の目的地となっていきました。

 マリアとヨセフは、家族の、民の、そして主なる神との契約の物語に、イエスを接ぎ木したにとどりません。イエスを守り育てることに専念し、イエスを信仰と礼拝の環境に導きました。そして、自分たちをはるかに超える一つの召命への理解を次第に深めていったのです。

 「祈りの家」(ルカ福音書19章46節)である神殿で、聖霊は一人の老人の心に語りかけます。神の聖なる民の一員であるシメオンは、預言者らを介して神がイスラエルにされた約束の成就への願いを育み、期待と希望を心に抱いていました。シメオンは、主の油が注がれた方が神殿内におられるのに気づき、「闇の中」に沈んだ民の間に光が輝く(イザヤ書9章1節参照)のを見ました。そして、イザヤが預言したように、「私たちのために生まれ」「私たちに与えられた」「平和の君」(イザヤ書9章5節)である、その幼子に会いに行きました

 シメオンは、小さく、か弱いその幼子を腕に抱きます。そして、幼子を抱きしめることで、慰めを得、人生が満たされたのは彼自身でした。その気持ちを深い感動と感謝に満ちた賛歌で表したシメオンの歌は、教会において一日の終わりの祈りとなりました。

 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。これは万民の前に備えられた救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの栄光です」(ルカ福音書2章29-32節=「聖書協会・共同訳」)。

 シメオンは、「見て、認めた者の喜び」を歌い、イスラエルと異邦人の救い主との出会いを他の人々に伝えることができました。賜物として受け、他者に伝える信仰の証人です。欺くことのない希望の証人、人の心を喜びと平安で満たす神の愛の証人である。この霊的な慰めに満たされた老人シメオンは、死を「終わり」としてではなく、「成就、充満」として捉え、人を無にするのではなく、彼が待望し、信じている真の命へと導く「姉妹」としてそれを待っています。

 その日、幼子イエスのうちに受肉した救いを見たのは、シメオンだけではありません。同様のことがアンナにも起きました。八十歳を超えた未亡人で、神殿の奉仕に尽くし、祈りに身を捧げていました。彼女は、幼子イエスを見て、まさにその幼子によってご自分の民を贖われたイスラエルの神を賛美し、人々に伝え、預言的な言葉を惜しみなく告げ広めます。

 二人の老人の贖いの歌は、すべての民と世界のために聖なる年を告げさせるものです。エルサレムの神殿で、希望が再び心に灯った。なぜなら、その中に、私たちの希望であるキリストがお入りになったからです。

 私たちも、シメオンとアンナに倣いましょう。この「希望の巡礼者たち」は、外見を超えて物事を見つめられる澄んだ眼差しを持っています。「小ささの中におられる神の存在に気づき、神の訪れを喜びをもって迎え、兄弟姉妹の心に希望を再び灯す術」を知る人たちなのです。

(編集「カトリック・あい」)

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2025年2月27日