◎教皇聖年連続講話「イエス・キリスト、私たちの希望」⑤「お生まれになったイエスは”飼い葉おけ”に置かれた」

教皇フランシスコ 2025年2月12日の一般謁見 バチカン・パウロ6世ホール教皇フランシスコ 2025年2月12日の一般謁見 バチカン・パウロ6世ホール  (VATICAN MEDIA Divisione Foto)

(2025.2.12  バチカン放送)

 教皇フランシスコは12日の水曜恒例一般謁見で、「イエス・キリスト、私たちの希望」をテーマにした連続講話を続けられた。今回は「ベツレヘムでのイエスの誕生」を中心に考察された。

 なお、教皇は長引いている気管支炎のため、予定原稿の本文の代読をバチカン国務省のピエルルイジ・ジロリ師に委ねられた。

 講話の要旨は以下の通り。

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 聖年の「イエス・キリスト、私たちの希望」をめぐる連続講話。今日は、ベツレヘムでのイエスの誕生について考えましょう。

 神の御子は、私たちの旅の同伴者となって歴史の中に入られ、まだ母の胎内にいる時から旅を始められます。

 福音記者ルカは、イエスは母の胎に宿るとすぐに、ナザレからザカリヤとエリザベトの家に行かれたことを語っています。マリアは月が満ちると、ヨセフと共にナザレからベツレヘムへ、住民登録のために向かわれます。ダビデ王の町に行かざるを得なくなったのです。それはヨセフが生まれた町でもありました。人々に待ち望まれたメシア、いと高き神の御子は、他のどの市民とも同じように、自らを数えられ、住民登録されました。御子は、「自分こそが全地の支配者だ」と考える皇帝アウグストゥスの勅令に従ったのです。

 ルカはイエスの誕生を 「正確に推定可能な時代」と「正確に示された地理的環境」に置きました。そのため「普遍的なものと具体的なものが互いに触れ合う」ようになりました(ベネディクト16世、『イエスの幼年時代』 2012、77)。歴史の中に入られた神は、世界の構造を解きほぐすのではなく、それを内側から照らし、再び創造しようとされます。

 ベツレヘムとは「パンの家」を意味します。そこでマリアは月が満ちて、イエスはそこで、世の飢えを満たすために天から降ってきたパン( ヨハネ福音書6章51節参照)としてお生まれになります。天使ガブリエルは、メシアである王の誕生を、偉大なしるしのうちに告げます。「あなたは身ごもって男の子を生むが、その子をイエスと名づけなさい。その子は偉大な人となり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」(ルカ福音書1章31-33節)。

 しかしながら、イエスは王としてまったく前例のない形で誕生されました。実際、「彼らがその場所にいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」( ルカ福音書2章6-7節参照)。神の御子は、王宮ではなく、家の裏側、動物たちがいる場所でお生まれになったのです。

 このように、ルカは、神は物々しい宣言と共にこの世に来られるのでも、センセーショナルに登場するのでもなく、謙遜のうちにその旅を始められることを示しています。

 では、この出来事の最初の証人たちは誰なのでしょう。それは数人の羊飼いたちでした。羊飼いたちは、教養に乏しく、常に接している動物たちの匂いをまとい、社会の片隅で暮らしていました。にもかかわらず、彼らは、神がご自分の民にご自身を教えるための職業、「牧者」を実践していました( 創世記48章15節、49章24節、詩編23章1節、80章2節、イザヤ40章11節参照)。

 神は羊飼いたちを、歴史上これまで聞いたことのない最も素晴らしい知らせを受け取る者として選ばれました。「恐れるな。私は、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそメシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(ルカ福音書2章10-12節)。

 メシアに会いに行くための場所とは、飼い葉桶でした。実際、長く待たれた「世の救い主、御子において万物が造られたにもかかわわらず(コロサイの信徒への手紙1章16節参照)、御子のための場所はなかった」(ベネディクト16世、『イエスの幼年時代』 2012、80)のです。

 羊飼いたちはこうして、動物たちにあてがわれた大変貧しい場所で、待ち望んだメシアが「彼らのために」彼らの救い主、彼らの牧者となるために生まれたことを知ります。それは、彼らの心を驚きと賛美と喜びの告知へと開く知らせでした。「羊飼いたちは、他のたくさんのことに熱心な多くの人々とは異なり、本質的なもの、すなわち、与えられた救いについての最初の証人となった。受肉の出来事を受け入れられるのは、最も謙遜で貧しい人々である」(使徒的書簡『アドミラビレ・シニュム』5項)

 私たちもまた、羊飼いたちのように、神の御前で驚嘆と賛美を抱く恵みを、主が私たちに託された才能・カリスマ・召命、そして主が私たちのそばに置いてくださった人々を守る恵みを祈りましょう。弱さの中で、神なる幼子の素晴らしい強さに気づくことができるよう主に願いましょう。神なる幼子は、世界を新たにし、全人類のための希望に満ちたご計画によって、私たちの人生を変えるために来られたのです。

(編集「カトリック・あい」)

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2025年2月13日