◎教皇聖年連続講話「イエス、私たちの希望」⑪「自分は変われない」と思っても、希望を失ってはならない

(2025.4.2  Vatican News   Deborah Castellano Lubov) 

 サンタ・マルタ館で療養中の教皇フランシスコは2日、水曜恒例の一般謁見のために準備された聖年連続講話の原稿をバチカン報道官室を通じて発表された。

 11回目となる聖年連続講話で、イエスの生涯における出会いに焦点を当てた講話の続きとして、教皇は、ルカ福音書にある徴税人ザアカイのエピソード(19章1₋10項)を取り上げ、「たとえ『自分が変われない』と思い込んでいても、希望を失ってはなりません」と説かれた。

 「ザアカイはある意味で『道』を見失っていました」とされた教皇は、「おそらく彼は誤った選択をし、あるいは彼の人生が苦闘して逃れようとする状況に追い込んだのかもしれません… 彼は他人の犠牲のうえに富を得ていたようです」と語られた。

 しかし、イエスが、ザアカイのいるエリコの町を通られることを耳にした時、「彼は『イエスに会いたい』という望みを持ちました。障害はありましたが、その強い望みを実現することをあきらめなかったのです」と教皇は指摘。

 「私たちも、彼のように解決策を見つける必要がある。ただし、そのためには勇気と、社会通念を無視する意思、子供のような素朴さを受け入れ、自分が周りからどう見られるかを気にし過ぎないことが求められます」と説かれた。そして、ザアカイはまさにそうしたのだ。「まるで子供のように、木に登りました」。

 続けて教皇は、「主においては、常に思いがけないことが起こります。イエスは、その場所に来られると、上を見上げられます。ザアカイは自分が見られていることを知り、おそらくは群衆の前で叱責されると思ったでしょう。群衆もそれを期待していたかも知れませんが、その期待は裏切られます。イエスはザアカイに、すぐに降りてくるように、そして『今日は、あなたの家に泊まらることにしている』と言われたたのです」と語られた。

 そして、「神は、失われた人々を探し求めずに、その場を通り過ぎることがおできになりません」とされ、ルカ福音書がザアカイの心の喜びを強調していることに注意を向けられ、「それは、見守られ、認められ、何よりも『赦された』と感じる人の喜びです… イエスのまなざしは、非難ではなく、慈しみです。私たちが受け入れるのに苦労するとき、私たちがふさわしくないと思う人々を赦されるときに示される慈しみです」と語られた。

 まら教皇は、ザアカイについて「彼はただ、望むだけの人ではなく、具体的な一歩を踏み出す人でもありました… 彼の決意は漠然としたものでも抽象的なものでもなく、自身の歴史から始まった。彼は自分の人生を振り返り、変化を起こす出発点を見極めたのです」と指摘、「私たちも、ザアカイから学び、疎外感を感じたり、変化を起こすことができないと感じたりするときも、希望を失わないようにしましょう」と信者たちを励まされた。

 講話の最後に、教皇は、世界のすべての信者に、「『イエスに会いたい』という願いを育み、何よりも神の慈悲によって『見出される』ようにしましょう… 神は、私たちがどこで道を見失っても、常に私たちを探しに来てくださるのです」と強調された。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

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2025年4月3日