◎教皇聖年連続講話「イエス、私たちの希望」⑩イエスとの出会いによって、私たちは常に新たな旅立ちができる

(2025.3.26  Deborah Castellano Lubov)

 サンタ・マルタ館で療養中の教皇フランシスコは26日、水曜恒例の一般謁見の聖年連続講話「イエス、私たちの希望」のために用意された原稿を発表され、「すべてを神に委ね、新たな旅立ちを迎えるのに『遅すぎる』ということは決してない… 神は常にやり直しの可能性を与えてくださるので、決して希望を失ってはなりません」と信者たちに呼びかけられた。

 この日の講話で教皇は、ヨハネ福音書の「イエスとサマリアの女」の箇所(4章5₋25節)を取り上げられた。サマリアの女と井戸で出会われたイエスは、彼女に水を求め、自分がメシアであることを明かす。そして、彼女の過去を明かし、永遠の命を象徴する「生ける水」をお与えになる。この出会いによって変えられた彼女は、水がめを置いて村に走り、他の人々をイエスのもとに連れて来る…。

 この出会いの逸話は、イエスが、サマリアの女性にされたように、私たちの人生の「岐路」で待っておられることを示している、と教皇は指摘され、「自分の人生に恥じらいを感じていたであろうサマリアの女性にとって、少々ショッキングなことだったかもしれません。自分が裁かれ、非難され、理解されていないと感じたでしょう。彼女には過去に5人の夫がおり、現在は6人目の夫ではない男性と一緒にいることを、イエスに言い当てられたからでした」と語られた。

 だが、イエスのお考えは違った。教皇は、「ユダヤからガリラヤへ行くために、イエスは別の道を通れば、サマリアを経由せずに済むはずでした。にもかかわらず、サマリアを通る道を選ばれ、まさにその井戸のところで立ち止まられたのです」とされ、「このことは、イエスが私たちを待っていてくださること、そして『自分には希望がない』と考えるまさにその時に、イエスは私たちを待ち、ご自分を見つけられるようにしてくださるのです」と強調。

 さらに、「もし彼女が『自分は理解され、歓迎され、赦されたこと』を悟らなかったら、彼女はどのような宣言をすることができたでしょうか?」と問いかけられ、 この出会いの場面は「福音宣教のための新しい方法を探求するうえでのヒントを与えてくれます」と付け加えられた。

 サマリアの女性は、水がめをイエスの足元に残した。教皇は、「(イエスと出会う前は)水がめを家に持ち帰るたびに、その重みが、苦悩に満ちた過去の人生を思い出させましたが、今、その水がめはイエスの足元に残されている。この時点で、過去はもはや重荷ではなく、彼女は過去と和解した。同じことが私たちにも言えるでしょう」とされ、「私たちもまず、自分の過去の重荷を主の足元に置き、主に委ねる必要があります」と語られた。

 そして、最後に教皇は、「愛する兄弟たち、愛する姉妹たち。希望を失わないようにしましょう! たとえ自分の過去が重荷のように感じられ、複雑で、破滅的であるように見えても、私たちは、常にそれを神に委ね、新たな旅立ちを始める可能性を持っているのです」と強調。「神は慈悲深く、常に私たちを待っておられます!」と講話を結ばれた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

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2025年3月26日