Pope Leo XIV at General Audience (@Vatican Media)
- (2025.6.4 Vatican News Deborah Castellano Lubov)
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教皇レオ14世は4日、水曜恒例の一般謁見の中で、連続講話「イエス・キリスト―私たちの希望」を続けられた。
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今回は、イエスが弟子たちになさった「ぶどう園の労働者」のたとえ話(マタイ福音書20章1₋16節)を取り上げ、「神の呼びかけに応じるのがどんなに遅れても、神は両手を広げて私たちを待っておられる」ことを信者たちに思い起こさせた。
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そして、特に若者たちに対して、「人生に意味を求めているなら、神はそれを与えてくださる… どのように絶望的な状況に見えても、どのように取るに足らないことのように見えても、神は私たちを受け入れ、私たちの人生に意味と希望を与えてくださいます」と励まされた。
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(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
教皇の連続講話の要旨は次のとおり。(バチカン放送)
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前回に続いて、イエスのたとえ話を考察したいと思います。このたとえ話も、私たちの希望を育むものです。私たちには、自分の人生に意味を見出せないような時があります。自分を無用で何にも値しない存在だと感じてしまうのです。
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それはまるで、誰かが雇ってくれるのを待ちながら、市場にずっと立っている労働者に似ています。時間は経ち、人生も過ぎ去っていくのですが、誰かから認められた、評価された、と感じたことがありません。たぶん、私たちが遅れてきたせいなのか、他の人はもっと機敏に行動していたのか、あるいは、私たちが心配事にとらわれていたからでしょうか。
市場の労働者たちのたとえ話は、今日にも通用するものです。なぜなら、市場は商売の場であり、そこでは、何かを得ようと、愛情や尊厳でさえも、売り買いされるからです。自分が評価され、認められたと感じられない時、人は最初に声をかけて来た者に自分を売り渡す恐れさえあるのです。それに対し、主は、私たちの人生には価値があることを思い出させてくださいます。そして、私たちがそれに気づくように助けたいと望まれているのです。
今日取り上げるたとえの中でも、労働者たちは日雇いしてもらうために誰かを待っています。マタイ福音書20章にあるこのたとえ話には、その風変わりなやり方で、人を驚かせ、疑問を抱かせるような人物が登場します。それはぶどう園の主人です。彼は労働者を探すために、自ら出かけて行きます。この主人が労働者たちと直接に関わりたいということが、そこからわかります。
先ほどお話ししたように、これは希望をもたらすたとえ話です。なぜなら、この主人が、人生に意味を与えてくれることを待つ人たちを探して、何度も出かけて行く様子が語られるからです。
主人は夜明けと共に出かけ、その後も3時間ごとに、ぶどう園に送る労働者を探しに戻ります。一日の労働は夕方6時に終わるため、この方法で行くと、午後3時に労働者を探しに行った後は、それ以上出て行く必要はないように思われます。
しかし、疲れを知らないこの主人は、私たち一人ひとりに、「何がなんでも人生の価値を与えたい」と思い、午後5時にもまた出かけて行きます。その頃広場で待っていた労働者たちには、おそらく何の希望も残されていなかったでしょう。しかし、彼らを信じる誰かが、その時まだ、いたのです。
一日の労働時間の最後の一時間だけ労働者を雇うことに、どんな意味があるのでしょうか。ほんの一時間だけ働きに行くことに、何の意味があるのでしょうか。それでも、人生の中で、たいしたことはできないように見える時でも、それには常にするだけの価値があるのです。意味を見出すことは常にできます。それは、神が私たちの人生を愛しておられるからです。
この主人の普通と違うところは、一日の終わり、賃金を払う時にも見られます。夜明けからぶどう園に行った労働者には、主人は一日の労働の典型的な賃金である一デナリオンを約束していました。しかし、主人は「他の労働者にも、正当な賃金を払う」と言いました。
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このたとえ話が私たちに疑問を引き起こすのは、まさにここです。「正当」とはどういうことなのでしょうか。ぶどう園の主人、すなわち神にとって「正しいこと」とは、「一人ひとりが生きるに必要なものを手に入れる」ということです。ぶどう園の主人は労働者たちを一人ひとり雇いました。彼らの尊厳を知っており、それに応じて払おうとします。そして、全員に一デナリオンずつ渡すのです。
たとえ話の中では、早くから働きに行った労働者たちは、がっかりします。彼らは主人のとった態度の素晴らしさを理解することができません。主人は不公平な人ではなく、単に寛大だっただけです。彼は人の功績だけでなく、必要も考慮したのです。神はすべての人にご自身の御国を、すなわち満ち満てるいのちと、永遠の幸福を与えたいと望んでおられます。そして、イエスは私たちにこのようにされます。誰をも格付けせず、ご自分に心を開く者に、ご自身のすべてを与えられます。
このたとえ話を聴いて、今日のキリスト教の信者は、このように考えようとする誘惑にかられるかもしれません—「なぜ早くから働かなくてはいけないのか。報酬が同じならば、なぜ余計に働く必要があるのか」と。
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この疑問に聖アウグスティヌスは次のように答えます—「なぜあなたを呼ぶ方に遅く従うのか、報酬については確かだとしても、その日については確かでないなら。あなたが先延ばしにしたせいで、約束に応じて主がくださるものを失わないないように注意しなさい」。
特に若い人に申し上げたいと思います。ご自分のぶどう園で働くようにと招く主に、待つことなく、情熱をもって応えてください。後回しにせず、それに向かって努力しましょう。主は寛大な方です。あなたを失望させることはないでしょう。主のぶどう園で働くことで、あなたは自分の心の奥底の問いに、人生の意味に対する問いに、答えを見出すことができるでしょう。
親愛なる兄弟姉妹の皆さん。失望してはいけません。人生の闇のときにも、私たちが探す答えが見つからないまま時間が過ぎるときも、主が再び出かけられ、私たちが待つ場所に来てくださるように願いましょう。寛大な主は、すぐにでもおいでになるでしょう。
(編集「カトリック・あい」)