◎教皇レオ14世連続講話「イエス・キリスト、私たちの希望」⑤「癒されたい」という望みを声に出してみよう

(2025.6.18 バチカン放送)

 教皇レオ14世は18日、水曜恒例一般謁見で「イエス・キリスト、私たちの希望」の連続講話を続けられ、今回はヨハネ福音書の「ベトサダの池で病人を癒す」(5章1₋9節)を取り上げられた。

 連続講話⑤の要旨は次の通り。

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 親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 人々を癒されるイエスの観想を続けましょう。今日は特に私たちが身動きできない行き止まりの道に迷い込んだ状況を考えてください。私たちには、しばしば「希望を持ち続けること」が無駄に思われることがあります。諦めが生じ、もう闘うこともしたくなくなります。

 こうした状況が、福音書の中で、体の麻痺した人の癒しを通して語られています。今日は、ヨハネ福音書の5章にある、病気で動けない人をイエスがいやすエピソードを取り上げたいと思います。

 イエスはユダヤ人の祭りのためにエルサレムに行かれました。すぐに神殿に向かわれず、ある門の傍らで足を止められました。それはおそらく、犠牲として捧げられる羊を洗う場所だったと思われます。この門の近くには、多くの病人が横たわっていました。羊との違いは、彼らが不浄とみなされ、神殿から締め出されていたことでした。

 イエスは自ら、こうした人々の苦しみの中に赴かれます。彼らは、自分たちの運命を変えるような奇跡に期待していました。実際、門のそばには池があり、その水は「癒しの力を持ったもの、人を治せるもの」と考えられていました。たまに水が動く時、それに最初に浸かった者は癒されると、当時は信じられていました。

 こうしたことが、ある種の「貧乏人の争い」とも言える状況を生んでいました。病気の人々が池に入るために、困難のうちに自らを引きずる悲しい光景が想像されます。この池は「ベトザタ」と呼ばれていました。それは「慈しみの家」という意味です。これは、「病者や貧しい人々が集い、主が癒しと希望を与えるために来られる場所」という教会のイメージかもしれません。

 イエスは、38年も病気で動けなくなっている人に問いかけます。彼はすっかり諦めていました。水が動く時、池の中に決して、入ることができなかったからです。私たちの場合も、自分を動けなくするのは「失望」であることが多い。がっかりすると、無気力に陥りがちです。

 イエスはこの病人に、無用に思われかねない問いをします。「良くなりたいか」。でも、それは必要な問いでした。なぜなら、何年も動けないでいると、「治りたい」という意志さえも失ってしまうことがあるからです。私たちも、時として、病気の状態のままでいることを好み、自分の世話を他者に押し付けることがあります。人生をどうすべきかを決めないでいることの、言い訳にしたりすることもあるのです。

 この人も、イエスの問いに対して、まわりくどい答え方をします。そこには彼の人生観が表れています。まず、「水が動くとき、私を池の中に入れてくれる人がいません」と言います。自分のせいではなく、面倒を見てくれない他者のせいだ、というのです。自分が責任を負わないための言い訳です。しかし、彼を助けてくれる者が誰もいなかったのは本当でしょうか。ここに聖アウグスティヌスの啓発的な答えがあります—「そう、彼が癒されるには、人が必要だった。しかし、それは神だったかもしれない… ともかく、必要だった人が来た。そうであるなら、まぜ、まだ癒しを先延ばしするのか」。

 この人は、さらに、「私が(池に)行く間に、ほかの人が先に降りてしまうのです」と付け加えます。ここに彼の運命論的な人生観が表れています。私たちも、「何かが起きるのは、自分が不運だからだ」とか、「運命が味方してくれなかったからだ」と考えます。この人は意気消沈しています。「人生の闘いに敗れた」と感じているのです。

 イエスは、この人に、「自分の人生が自分の手中にあること」を発見するよう助けます。彼に、慢性的な状況から、起き上がり、床を担ぐようにと、促します。その床を、置きっぱなしにしたり、捨てたりすることはできません。それは彼のこれまでの病、彼の生きざまを表わすものだからです。

 その時まで、彼は、行く手を過去にふさがれ、死人のように横たわることを余儀なくされていました。今、彼は床をかつぎ、どこでも望みのところに持っていくことができます。自分の人生をどうするか、自分で決めることができるのです。それは、「歩むこと」、「どの道を行くか責任をもって選ぶこと」です。それができるようになったのは、イエスのおかげです。

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん、自分の人生がどこで行き詰まったのかを理解する恵みを主に願いましょう。癒されたい、という望みを声に出してみましょう。そして、身動きできないと感じ、出口を見出せないでいる全ての人のために祈りましょう。真の「慈しみの家」である、キリストの聖心の中に再び住めるようにと、祈り求めましょう。

(編集「カトリック・あい」)

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2025年6月19日