(2025.12.18 Vatican News Kielce Gussie)
2025年の聖年の始まり―聖なる扉の開門―まであと6日を切った18日、教皇フランシスコは水曜恒例の一般謁見で、聖年全体を象徴する連続講話を始められた。テーマは「イエス・キリスト、私たちの希望」だ。
教皇は、この新たなテーマで始まる連続講話の冒頭、イエスを「私たちの巡礼のゴールであり、イエスご自身が道であり、従うべき道」と表現された。そして、マタイとルカの二つの福音書に触発され、イエスの幼少期から始められた。
「二つの福音書は、メシアの預言を想起させ、イエスの誕生と旧約聖書全体にわたるイエスの血統によって成就したことを語っています」とされたうえで、教皇は、「(マタイとルカの)二人の福音史家は共に、イエスの幼少期と子供時代を描いていますが、1つの独特な違いがあります… ルカはマリアの視点から出来事を伝えていますが、マタイはヨセフの視点から伝えており、父親としての役割を強調しています」と指摘された。
マタイによる福音書は、アブラハムからヨセフとマリアに至るイエスの系図をたどることから始まる。それは「歴史の真実と人間の生の真実を示す」ための名前のリストとなる。イエスの系図のクライマックスは、彼が「すべてはマリアとキリストにおいて終わり、栄える」ように誕生したことだ。すべての名前を列挙することは、「世代から世代へと受け継がれる人間の人生の真実」を示す。それぞれの名前は新たな章を意味する。それぞれの名前は「独自のアイデンティティと使命、家族や民族の一員であること、そして最終的にはイスラエルの神への信仰の固守」を体現している。
福音書に見られるさまざまな文学的ジャンルの中でも、系図は本質的なメッセージを伝えている。「人は誰しも、自らに命を与えることはできず、他者からの贈り物として命を受けるのだ。イエスの家系図は、神に選ばれた民を構成する人々や家族を追っており、彼らの父祖の信仰を次世代へと受け継いでいく。
しかし、新約聖書に記載されている系図は、旧約聖書に記載されているものとは著しい違いがある。タマル、ラハブ、ルツ、バテシバ、ナザレのマリアという5人の女性の名前も記載されている。教皇は、最初の4人は「罪人であるという事実によってではなく…イスラエルの民にとって外国人であるという事実によって」結び付けられている、と説明された。ベネディクト16世教皇が述べたように、マタイによる福音書では、「異邦人を通して、イエスがこの世に来られたこと」が強調されている。ユダヤ人と異邦人に対するイエスの使命が明らかになるのだ。
系図に登場する最後の女性は、イエスの母マリアである。前の4人の女性とは異なり、彼女は「彼らから生まれた男または彼らを父親とする男」と一緒に記載されていない。教皇は、「これは、彼女が新たな始まりを意味することを示しています。なぜなら、彼女の物語は『人間が、もはや生み出す存在ではなく、神そのものである』ことを示しているからです」と語られた。
イエスについて書かれるときには、「生まれる」という表現が使われている。教皇は、この表現について、「イエスの誕生は、ユダヤ人と非ユダヤ人の両方にとって意味のあるものだったからです」と指摘。イエスはダビデ王の子孫であり、「ヨセフによってその王朝に組み込まれ、イスラエルのメシアとなる運命にある」とされるが、イエスは異邦人であるヨセフの息子でもあるため、「異邦人の光となる運命にある」ともされるのだ。
教皇は最後に、信者たちに、「先祖に対する感謝の念を思い起こすように。そして、教会を通して、私たちを永遠の命、すなわちイエスの命へと導いてくださる神に感謝するように」と促された。
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また一般謁見の冒頭で、教皇は幼きイエスのテレジアの聖遺物に花束を捧げ、敬意を表された。黄金の容器に収められた聖遺物は、聖年が終わるまでローマのスペイン階段近くのトリニタ・デイ・モンティ教会に安置される。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)