Sr.石野の思い出あれこれ ㉓「貞潔、清貧、従順の三つの誓願・”窮屈”な生活に身を投じるのは‥.」

  修練期も終わりに近づき、初誓願を宣立する日が迫ってくると修練女たちは胸を躍らせた。

   貞潔、清貧、従順の三誓願を立てて、己を完全に神に捧げる。これからの修道生活を支える三つの聖願については修練期の間に詳しく教えられ、厳しく訓練された。簡単に言えば、清く、貧しく、従順に生きることが、これから進む道だ

 貞潔は難しく説明する必要はない。ひと言で言えば一生涯独身を守ること。「なぜ」と問われ、その理由と生き方を説明しようと思えば、結構長くなる。

 清貧は細かい。貧しく生きることを目指す。金銭は勿論のこと自分の物は何も持たない。着ている制服さえも…..。たとえ自分が持っているものでも、「私のもの」ではなくて、「私が使用するもの」である。鉛筆一本でも紙一枚でも「私のもの」ではない。すべて修道会の物であり、「私が使用を許可されたもの」である。忘れ物などあって「これどなたのですか?」と聞けば「ハイ、私のものです」とは答えず「ハイ、私の使用物です」と答える。

 今思うと、行き過ぎと思えることもあった。お金は一切持たない。外出する時は、往復の電車賃だけを持って出かける。ある時、電車賃が値上がっていたのに気づかず、以前の往復の電車賃を持って出かけた。途中で10円足りなくなった。さて、どうしよう。一緒のシスターと相談した結果、交番に行って理由を話し、「必ずお返しします」と言って」、10円借りたこともあった。今は、いつも多少余分のお金は持って歩く。

 従順ははっきりしている。規則や目上の意志に文句なしに従うこと。たとえ、目上の言うことが間違っている、と認識しても従うこと。言い訳は一切しない。これは外的に行為するのはやさしくても、「正しくない」と思えることを受け入れるのは、内的に非常に難しい時もある。

 時に理屈に反することを言われることがあっても「ハイ」と言って従う。そんな窮屈な生活に、なぜ、わざわざ身を投じるのか、と問われても、この道に召されている者にとっては、その不便さに比べられない大きな喜びと幸せを与えてくださる方(神)に捕らえられているので、これ以上の喜び、宝は存在しないのである。

 現在では、誓願の本質は変わっていなくても、そのとらえ方や生き方は、昔に比べて、だいぶ緩やかになってきている。時々、昔の厳しい生活にある種のノスタルジーを覚えるのは、私だけだろうか。

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2020年5月31日