・Sr.岡のマリアの風(74)「顔と顔を合わせて話がしたい」ーオンライン会議でできないことは…

 四月、新しい年度が始まる。二年間、コロナウィルス感染症拡大のため、オンライン会議、オンライン講座…が続いた。気が付けば、まだ実際に「顔と顔を合わせて」会ったことがない人たちと重要な話をして、決断をしなければならない状況が増えてきた。

 2022年度の、私の切なる願い。できるだけ、少なくとも一度は、大切な協働者たちと実際に会って、話をしたい。

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 オンラインでの会議で思うことは、その時だけとりつくろえば何とかなる、「画面上」で、そつなくしていれば「ボロは出ない」という、スマートかもしれないけれど、互いに目を見て話す真剣勝負、という雰囲気に欠ける、ということだ。

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 同時に、「休憩時間」の要素も欠ける。実際に会って会議をする時の、コーヒーブレイクや食事を共にする時間は、言葉だけでは伝わらないことを共有し、互いに知り合うための大切な要素だ。一緒の空間を共有することで、ちょっとしたしぐさ、クセ…など、すべて含めて、「丸ごと」の相手を受け入れることを学ぶ。

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 オンライン会議では、出席者たちは、何か、ヨーロッパの大聖堂の「ファサード」(正面部分)のように、美しいけれど何となくすべては見せていない、「切り取られた部分」しか見せていない、と思うときがある(私がそう感じるだけかもしれないけれど)。

 文化の異なる人とのオンライン国際会議になるとなおさらだ。微笑みの「裏」で、彼は、彼女は、何を感じているのだろうか、直接会って聞いてみたい、と思うことがたびたびある。

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オンラインではない実際の会議では、肯定、否定を「空気」で感じることもできる。たとえ皆が微笑んでいても、やさしい言葉のオブラートに包まれていても、否定的な方向に話が流れている、と「空気」で感じることがある。「そうですね」と言いながら、彼は、彼女は、目が笑っていない、「違うよね」と言いたげに目配せを送ってくる…。そのようなことは、オンライン会議で感じ取るのは難しい。

 さらに、実際の会議では、会議の後、「さっき、あなたはこういう風に言ったけど、本当にそう思っているの?」、「あなたは、あの人が言ったこと、どう思った?私はこう思ったんだけど、どう思う?」…と、コーヒーを飲みながら、食事をしながら、話すことができる。

 オンライン会議だと、終わったら「退出」。あの人と話したい、と思っても、そううまくはいかない。結局、何か聞きたかったら、その人にメールやメッセージを書かなければならない…。

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 世の「終わりの時」(終末)、私たちは「顔と顔とを合わせて」神を見る、と使徒パウロは宣言する(コリントの信徒への手紙1・13章12節参照)。「オンライン」の画面を通してではなく、実際に「聞いたもの、目で見たもの、手で触れたもの」(ヨハネの手紙1・1節章1参照)として、神を知るようになる。

 教皇フランシスコは、キリスト教を「バーチャル」な世界で理解しようとする、「受肉していない精神主義」の危険を指摘する。使徒聖ヨハネは、神は「人となり」、私たちの間に実際に、真に「現れた」ことを強調する。

 神はこの世界を、「きわめて善いもの」としてお造りになった(創世記1章31節参照)。「人間の罪は、自身の存在そのものにおいて、『きわめて善いもの』を暗くしてしまい、そのようにして、世界を神から引き離し、世界を『それ自体が目的』としてしまった、つまり、堕落と死としてしまったことにある」(Alexander Schmemann)。

 神は、御子の「受肉」と「過越」の神秘を通して、元来「きわめて善いもの」であった世界を救った。世界の意味、使命を再び明らかにすることによって:「神との交わりの中に、そして神のうちにすべての被造物との交わりの中にいること」(A. Schmemann)。

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 「オンライン」は便利である。遠く離れている人たちとも、気軽に会議をすることができる。けれど「実際に会う」「同じ空間・時間を共有する」ことの大切さを、いつも覚えているべきだろう。実際の会議を行うことは、けっこう面倒である。日程調整、宿泊場所… の段取り。

 でも、神は、その「面倒」なことを、私たちの救いのためにしてくださった。相手を丸ごと受け入れることを学ぶためにも、顔と顔を合わせる「面倒」を忘れないでいたい。

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女、教皇庁立国際マリアン・アカデミー会員)

 

 

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2022年3月31日