Sr.岡のマリアの風(70)教皇の待降節第一主日の正午の祈りー「目覚めて祈る」

*典礼に関する本を読みながら…

 S典礼音楽研究所で、まさに「典礼」についての授業をお願いされました。

 自分の専門ではありませんが、ローマで神学を勉強していた時から、もっと深めたいと望んでいた分野であり、よい学びの機会と思い、お受けしました(…で、かなり四苦八苦しているのも事実です)。

 典礼に関する本を読みながら、典礼が「教会の活動が目指す頂点であり、同時に教会のあらゆる力が流れ出る源泉である」(『典礼憲章』10項)であることを再確認しています。

 Lex orandi, lex credendiという有名な言葉があります。「祈りの法は、信仰の法である」。私たちは「祈っていること」を「信じている」のであり、「信じていること」を「祈っている」のです 逆に言えば、祈っていないことを、信じることはできないし、信じていないことを、祈ることはできません。

 現代の、東方正教会(Orthodox Church)の著名な神学者アレクサンドル・シュメーマン(Alexander Schmemann)師  は、「エウカリスチア(聖体祭儀)」についての本の中で次のように表現しています(試訳)。

 「初期の教会は、lex credendi(信仰の法)とlex orandi(祈りの法)が切り離せないものであり、相互に立証し合うものであることをよく知っていた。聖イレネオの言葉を借りれば、 私たちの教えはエウカリスチア(聖体祭儀)と調和し、エウカリスチアは私たちの教えを裏付ける」(Alexander Schmemann, The Eucarist, St Vladimir’s Seminary Press,New York 1987, p. 13)

*「キリスト者の生活の大敵は、無気力」と教皇

  教皇フランシスコは、11月28日の待降節第一主日の「正午の祈り」で、その日の福音( ルカ福音書21章25₋28節、34₋ 36節)から、イエスの招き、目覚めていること(注意、警戒していること)を思い起こしておられますー霊的生活、キリスト者の生活の「大敵」は、怠惰(無気力)であり、「目覚めていること」とは、怠惰から心を守ること custodire il cuore dall’accidia)。そしてその秘訣は、祈りである、と。(以下、教皇の言葉は試訳)

 「心の灯を燃やすのは祈りです。特に、熱意が冷めてしまったと感じるとき、祈りは熱意を呼び覚ましてくれます」。なぜなら「祈りは私たちを、神に、物事の中心に引き戻し魂を眠りから覚まし、重要なこと、存在の目的に集中させ」るからです。

 怠惰、無気力から私たちの心を守るために「祈ること」。しかしそれは、「オウムのように祈りを繰り返す」ことではありません。「霊的な世俗性に麻痺してしまっている」、「うとうとしているキリスト者」「安楽いすに座っているキリスト者」が何と多いでしょうか、と教皇は言われます。

 「いつも内向きで、地平線を見ることができないキリスト者たち。それが 居眠り につながります。惰性で物事を進め、自分にとって都合の良いこと以外には無関心になってしまうことにつながります。そして、このように人生を続けることは悲しいことです…そこには幸せはありません」。

*待降節の初めの御言葉に終末的響きが

 驚くことに、典礼暦の始め、待降節第一主日に宣言されるみ言葉は、イエスが受難の前に語った、終末的響きをもつ言葉です。待降節は、私たちのただ中に来られる主の「降誕」を待つと同時に、完成の日の「再臨」を待つ時でもあるからです。

 「人びとは、これから世界に起こることを予感し、恐怖のあまり気を失うだろう。天の諸力が揺り動かされるからである」(ルカ福音書21章 26節)。しかし、まさにその時に、「恐れるな」とイエスは言われます。それらが、イエスが再び来られることの徴だからです。「このようなことが起こり始めたら、身を起こし、頭を上げなさい。あなた方の救いが近づいているからだ」(ルカ福音書21章28節)。

 「まさに、すべてが終わってしまったかのように見えるその時、主が私たちを救いに来られる」のです。だから「苦難の中でも、人生の危機の中でも、歴史のドラマ(悲劇)の中でも、主を待ち望むこと。主を待つこと」が求められている、と教皇フランシスコは指摘されます。

 待降節、「主を待ち望む」というのは、決して受身的な態度ではありません。フランシスコ会の南雲正晴師が、日本語で「待降節」と訳されている、ラテン語のdventusについて書いておられます。

*そして「迫り来る」神の救い!

 「Adventusには やって来る という意味もあります。日本語の 待降 という意味も多少はありますが、これは少し弱い言葉だと思います。言葉としては 到来』がよいと思います。神の恵みが私たちのもとに 至り―来る』 “Ad-ventus”です。私たちのほうへ向かって迫り来る神の救いなのです」( 日本カトリック典礼委員会[編]、『キリストの神秘を祝う。典礼暦年の霊性と信心』、カトリック中央協議会、2015年、15頁)。

 私たちに向かって「迫り来る」神の救い。私たちの態度はどうあるべきでしょうか。ただ受身的に「待っている」ことでしょうか。そうではないはずです。迫り来る救いを、「はい」と答えて受け入れるか、「いいえ」と否むか、または気づかずに通り過ぎてしまうか。

 神の救いは無償です。全くの恵みです。他方で、救いはオートマチック(自動的)ではありません。私たちが救いに向かって心を開き、受け入れない限り、救いは私たちの命の中に入ることはできません。それが、人間が「自由」な存在である、という神秘です。私たちの造り主である神を否むことさえできる、自由の神秘。

 私たちを救うために「迫り来る」主を、受け入れるか、受け入れないか。この方を信じるか、信じないか。「うとうとしているキリスト者」にならないように、目覚めて祈ること。

*主を受け入れるために、いつも目覚めて祈る

 自然の命を保つためには、命を養う水、食べものが必要です。洗礼によって御子の内に「神の子」の命をいただいた私たちは、その命を養う「神の言葉」を必要としています。教会の日々の典礼の祈りが、すべて神の言葉によって構成されているのは偶然ではありません。神の子の命は、「人間の言葉」ではなく、「神の言葉」を味わい、かみしめることによって成長するのです。

 忙しい日々の中で神の言葉に留まるために、「祈り」を怠らないようにしましょう、と教皇は招かれます。しばしば短い祈りを唱えること。例えば、待降節において、「主イエスよ、来てください」と言うこと。それを、一日の中で繰り返してください、と。

 聖母に祈りましょう。注意深い心で主を待っていた聖母が、私たちの待降節の旅に同行してくださいますように」と教皇は結んでいます。「目覚めて祈る」…。「迫り来る」救い主を、日々の小さな徴の中に見出し、受け入れることが出来ますように!

 (岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女、教皇庁立国際マリアン・アカデミー会員)

このエントリーをはてなブックマークに追加
2021年12月1日