(飛び入りコラム)「エクソシスト」の経験を通して、教会のあり方を考える

*初代教会から続く「エクソシスト」は「悪魔、悪霊にさいなまれる人を苦しみから解放する人」

 日本の信徒の方々には、あまりなじみのない方が多いとは思うが、私は、かつて正式な「エクソシスト」としての任務をおこなった経験から、お役に立てそうに思うことを、少し分かち合いたい。

 エクソシストの任務は、キリストが使徒に与えた任務の一つであり、初代教会以来、教会の使命の一つとされている。具体的には、「悪霊を追い払うこと、悪霊にさいなまれる人をその苦しみから解放する人」を指すが、「エクソシズム」という用語そのものは、「強く誓うこと、言い換えれば悪ではなく神にこそ聞き従うことの宣誓」と言える。

*教会は現代も「悪魔、悪霊の働き」を認めている

 カトリック教会は、技術社会と呼ばれる現代においても悪魔の働きを認め、それに対処する役務として悪魔払い(エクソシズム)を実施している。もちろん、「悪魔、悪霊に悩まされていると訴える人の99%は何らかの精神的な疾患を抱えている」ということは、周知の事実となっているものの、ごく稀に、科学的にも説明のつかない現象があることを、教会が認めていることも確かである。

 当然、現代社会において、神の御旨、慈しみ、愛、真理、正義などから人を遠ざける悪の働き、社会的な悪の根底に潜む悪魔の存在を認めることもできる一方で、人や物に対する直接、かつ個別の悪魔の働き、いわゆる「悪霊の憑依現象」を介して個人の生活を崩壊に追い込む具体的な力、としての悪魔の存在も、否定されるものではいない(『現代世界憲章』37項参照)。

 また、『カトリック教会のカテキズム』(2851-2854参照)にもあるように、教会の教義は、悪魔の存在と働きは「単に良くない状態、不運、不幸、失敗などいう漠然とした状態、概念としての悪」を指すものではなく、明確な人格的な主体と、その働きだ、という。それこそが現在の教会における「主の祈り」の「悪よりお救いください」という祈りの解釈とされている。

 この悪魔は、ホラー映画のような超常現象を伴うようなわかりやすい形でなくとも、社会的なレベルでも個人生活のレベルでも巧妙に働きかけるものでもあり、常にキリスト信者は悪魔の巧妙な手口に負け、迎合する生き方ではなく、真善美そのものである主に従う者としての人生を歩むように招かれている。

*悪魔的な力は、今も、教会組織内部にも入り込み、大きな害悪を生み出している

 その意味で地上の教会の歴史は、世にあるキリスト者の悪に対抗する歩みの歴史である、とも言える。この悪魔的な力は、巧妙に教会組織内部にさえも入り込む。つまり霊的に身を固めていない、目覚めて祈っていない教会の人間のうちに、利己主義、高慢、欺瞞、貪欲、無理解、無慈悲、怒りや憤り、不懸命さ、自己正当化、怠慢… さまざまな仕方において、教会内外で大きな害悪を生み出している。

 かつてのローマ教区のエクソシストの一人が、「司祭や司教が『悪魔の働きなど現代においては存在しない、悪魔祓いなど現代の教会においては全く必要ないものだ』などと考えるのであれば、悪魔の侵攻は、おおかた成功している、と言えるだろう」とコメントしていたことを思い出す。

 悪の働き(誘い)に対抗する必要がもはやない、と言うのなら、もはや教会の必要さえないのだ。万物が神から与えられた本性を取り戻した、と言うのであれば、聖化する働きなどもはや必要ないことになる。聖別の祈りなど不要ではないか。聖霊の働きを認める一方で、悪の巧妙な働きは認めない、と言うのもどうなのだろうか。悪の力、罪の力を認めつつ、聖性の恩恵の尊さを心から感謝して生きることは、できるのではないだろうか。

 教会の歩みは、世の福音化の旅(これこそ善の促進であり悪の駆逐に他ならない働き)であるが、同時に常に自らも回心・刷新し続ける旅でもある。教会は、さまざまな時と場所で、さまざまな仕方で、世の終わりまで、神が全てにおいて全てとなるまで、悪と戦い続ける存在である。

*公式の悪魔払いの儀式に臨んだ経験から

 前置きが長くなったが、私がこれまで数件の公式の悪魔払いの儀式に臨んだ経験から感じていることを述べたい。とは言え、エクソシストの任務は典礼法規によって具体的な事例についての情報を秘匿しなければならないため、具体性に欠くことはお許しいただきたい。

 実際、現場の司祭がこの手の相談を受けた場合、対処法がわからない、病気とも悪霊の仕業とも、なんとも言えない状況において解決のため、地区裁治権者がエクソシストの助けを必要とした場合に限り、個別に悪魔祓いの儀式の執行許可が与えられる。

 海外のように、通常の教区のエクソシストとして任務を受けている司祭がいる場合は、いちいち司教館を騒がせずにその司祭が事案に対処することができる。そしてエクソシストは、典礼法規にしたがって必ず精神科医などの専門家の支援を受けて事案に対処しなければならない。

*”悪魔の憑依”ともとれるような様相を呈する場合も

 私が関係したケースにおいては、実際に祈りを始めると突如としてトランス状態になり、目つきや顔つきも変わり、身体の状態も震えや通常ではない姿勢、
仕草をとりはじめ、言葉遣いにも別人格が現れ、それまでの本人とは全く異なる話し方をしたり、普段本人が関心を持たないような話題を供述し始めたりと、確かに一見すると映画にも見られるような悪魔の憑依ともとれるような様相を呈するものがいくつもみられた。また祈りに対する嫌悪や信仰への罵倒などもみられたこともあった。

 ともかく、エクソシズムの儀式を仮にも執行するに至るケースは、非常に人間のエキセントリックな状態を体験する。とは言え、私の立ち会ったケースでは、邪気を感じたり、身体が宙に浮いたり物が飛んだりする現象はなかったし、儀式書にあるラテン語の命令にも、答えは返ってこなかった。この種の人格の変貌ぶりは、(ご存知の方もおられるだろうが)精神科の専門病棟においては、さほど珍しくない光景である。

 儀式書の中で悪魔に命令をおこなう箇所はあるものの、典礼法規によって式中に余計な質問をしてはならないことになっているのだが、それでもトランス状態、あたかも”憑依状態”とおぼしき当事者の別人格による叫び、汚らしい言葉遣いや罵倒も含めた言い分に耳を傾けることは重要である。

 それは、その後の式の進め方のみならず、その後その人の生活において構ずべき措置を検討する上でも、重要になるからである。そしてそれこそが、悪魔と思しき、本人の真の心の内なる声、心の傷の叫び、だったりするからである。

*現代医療の見地からは「精神性疾患」だが

 これまで主だったケースのサポートにあたってくれたカトリックの医師は「100%と言い切れないが、ほぼ精神疾患で間違いないだろう」という判断を下して
いる。WHO(世界保健機構)が出している『国際症病分類』(通称 ICD)や、アメリカ心理学協会の『精神障害の診断、統計マニュアル』(通称DSM)などから、所謂「悪魔憑き」、「悪魔に苛まれる」現象は、現代精神科医療の見地からは、統合失調症や解離性障害、ヒステリー、祈祷性精神病、憑依型感応精神病と言われる症状として診断される。

 重要な点は、こうした精神性疾患は、多くの場合、自我が形成される過程、またはそれ以前の幼児期に受けた様々な悲劇的体験によるもの、とされている点である。即ち、人間が個を形作る上で、虐待や疎外などで、極度に身体・精神を傷つけられるような異常な体験をすることによって、自己の意識が不安定になり、人格の分裂をきたす、と精神医学から説明がなされている。

*児童への性的虐待が発症の引き金になるケースもある

 近年、教会内外で大きな問題とされている児童への性的虐待の事案でも、こうした経験を持つ人が上記の精神的な問題を抱えることはよく知られている(例えば、森田ゆり『子どもへの性的虐待』(岩波新書)を参照されたい)。同様な事例として、性風俗で働いた経験のある人々の中には、後年、解離性障害などの精神疾患に悩まされる人が多い、とも言われている。

 とはいえ、当該医師は、「精神疾患である以上、治療が必要だが、教会に心の救いを求めて来ている限り、祈りなどなんらかの対処によって、一時的な安静程度は期待できる」とも助言してくれた。根本的な治療には、心と体を傷つけた原因を見極め、薬物療法を併せて、少しずつ癒していく、という気の遠くなる作業療法が必要になるわけだが、これにまったく教会が無力であるとか、仕事の領域外である、と言うものいかがなものかと思う。

 当事者は教会に、心の救いを求めているわけである。そして使徒たちも、病人に加えて、悪霊に取り憑かれた人、生きることに疲れてしまっていた人々を癒すイエスの働きを確かに担っていたのである。

*教会の主たる役割は、人々を悪から救うこと-他人事にしてはならない

 教会は、決して物分かりのよい真面目な人間に、ただ教会の教理を教える”生涯学習センター”のような組織ではないし、ましてやボランティア事業を展開する
NGOでもない。昔も今も、教会の任務の主眼は人々を悪から救うことに他ならない。教会は、信仰を伝えること、福音によって愛と希望に生きるための組織であって、苦しみを訴える人を単に病人だといって追い払う所ではない。少なくとも確実な解決となる機関に結びつける働きくらいはすべきであろう。

 では、現在の教会の有様はどうだろうか。さまざまな人々の訴え、真の問題のありかを、まともに見ず、つまり丁寧に、真剣に人に向き合うことをせず、切って捨てるように、「それは教会の仕事ではない」「教会の扱う問題ではない」「うちに来られても迷惑だ」などと言って、病院任せや弁護士任せ、国の裁判所任せにする冷たい姿勢でいるのではないだろうか。

 そして、人々は、もはや苦しみの解決先として教会に頼ることなどしなくなる。多くの人々が教会の扉をたたかない理由は、こうした教会の「冷たさ」にあるようにも思う。

*人々が教会の扉をたたかない理由は「冷たさ」にあるー『救い」を見いだせる存在に

 悪魔祓いの訴えは、確かに解決困難であるし、回復困難なまでに精神的に身体的に元に戻れないほど凹んでしまった人と向き合うことは、本当に骨の折れる
ことである。上記のサポートに当たってくれたカトリックの精神科の医師の日々との仕事を見るにつけ、聴罪司祭以上に尊い仕事をしているように感じ、通常、一週間に一度程度の赦しの秘跡しか行なえていない自分自身を反省する。そして、多くの生活苦を抱えている信者に、教会以上に丁寧に関わってくれる弁護士など教会外の人々のの姿にも頭が下がる。

 私たち教会の人間は、真の意味で、もっともっと人々の苦しみを受け止められる存在になっていく必要があろう。そうしてこそ、世の人々は、教会に「救い」を見出せるはずである。人々が本当に見出したい救いは、「愛情をもって、自分を受け入れてもらえる温かさ」のはずだ。真の意味での「教会」とは、ただの宗教施設でもなければ税関や管理事務所でもない。キリストに起き上がらせてもらい、まっとうな人生を仲間と共に歩み出せる力をもらえる場所ではないか。

 かつて、聖ヒエロニムスに関する伝説だ、として聞いた話がある。幻で現れたキリストに「何を差し上げたらよろしいでしょうか」と尋ねる聖人に対して、キリストは「あなたの罪、あなたの苦しみを、私に差し出すように」と言ったという。

 教会も、人々がその苦しみや悲しみ、そして罪と悪を、そこに置いて行き、人々が救われていく場になっていけたら、と思う。

(東日本の、とある教会の主任司祭)

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2022年2月28日