(読者投稿)新型コロナ感染で生き方自体を考えねばならない時期に

 新型コロナ感染に伴い、すべての人がストレスを抱え、生き方自体を考えねばならない状況である。

 2019年12月のコロナ発症から一年以上が過ぎたが、カトリック信者として、一人一人がこの間どのように生きてきたのであろう。人間は自分のことに責任を持って生きねばならない、と言われるが コロナに関して辛い報道が頻繁に流れる状況の中で 自分の考えさえも冷静に表すことは難しい。それぞれの家族での対応も千差万別であり 此程までに大きな問題提起を与えられた人間社会は 何を強く感じねばならないのだろうか。

 イタリアでは50人の司祭が感染者のための病者の塗油、また臨終への立ち合いで死亡された報道があった。フランシスコ教皇は、死亡した聖職者を「英雄的だ」と称えられた。恐怖にかられながらも、 自分の命を差し出された司祭方の勇気から、イエスを見ることができた。

 コロナ禍のアメリカの病院で自らチャプレンとして働く若い日本人牧師の報道があった。宗教を超えて他者の為に自分を使う。そこには支えてくれる仲間もいる。もちろんカトリックの司祭も、そこでチャプレンとして働いているだろう。

 宗派を超えてアイデアを出し合いながら働くことは、なんと素晴らしいのだろう。人間社会にとって 人間の言葉で話し合うことは一番必要であろう。特に司牧者にとっても真に人間的であることが奉仕職を行う上で不可欠だろうと私は思う。

 最近のカトリックに関する報道は、本当に残念な聖職者の姿である。ともすれば世界のカトリック教会の聖職者すべてが 、一般市民にとっては、悪人化されても不思議ではない報道内容であ。カトリック教会の歴史の中で『隠蔽』体質が問われることは、信者として情けなく、恥ずかしい。このような体質は神もイエスも認めないであろう。一番あってはならない教会の姿である。

 私たち信徒は、純粋に神を信じイエスと共に歩んでいきたいのである。位階制度をうたう聖職者からの暴言と行いから苦しめられている信徒はどのくらいいるだろうか。聖職者のことで苦しんでいる時に 相談する適切な機関もないのが日本の現状だ 相談機関に 問題がある当の聖職者がいる場合、誰がどこに行かれようか。

 身を削って兄弟姉妹のために働くことが、 真の聖職者の姿ではないのだろうか。今のカトリック教会の一部に見られるように、一方的な判断基準では、時に魂さえも傷つけられて、つまずかせられる。自分が一番正しいと思い、 安泰だけを求める宗教は深化しないのではないだろうか。

 コロナ禍の中、神からの問いかけは何なのか。現実と真摯に向き合い 、自分の無力さをも認めながら 、自分の信仰を見つめたいと思っている。

(西の憂うるパヴァーヌ)

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2021年2月6日