森司教のひとこと③教会の変革を訴える続ける教皇

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 教皇に着任してからのフランシスコ教皇は、司教や枢機卿たちの集まりでも一般信徒の集まりでも、機会ある毎に、教会の変革を訴える呼びかけている。

 その呼びかけは、平易で,誰にも分かりやすく、しかも新鮮で刺激的である。たとえば、着任直後のインタビューでは、「教会は、道徳に関する教義を気に病むべきではなく、傷を負った人々に気を配る野戦病院のようでなければならない」(2013年インタビュー)と語り、2014年のシノドスの冒頭の挨拶でも、「カトリック教会は、変化を恐れてはいけない」(2014年のシノドス)と世界各地から集まった司教たちに呼びかけている。

 また2014年聖霊降臨の祝日でも、サンピエトロに集まった人々に、「教会に驚かせる力がないと言うことは、教会が弱っており、死にかけていると言うことです。すぐに病院に連れて行かなければ」と語っている。

 さらにまたアッシジを訪れた際には、貧しさに徹したフランシスコを念頭におきながら、「私たちは洋菓子屋に並べられたキリスト教徒になっています。きれいに飾られたケーキやお菓子みたいキリスト者で、本物のキリスト教徒ではありません」(2013年、アッシジ)と説教している。

 「道徳に関する教義を気に病むべきではない」「教会は弱っており、死にかけている」「私たちは洋菓子屋に並べられたキリスト教徒になっている」

 このような発言は、歴代の教皇たちの口からは決して期待できないものだ。

 教皇フランシスコの発言は,一方で教会の中の保守的な人々から反発を受けていることもまた事実である。しかし、教皇は、それを承知しながら、「教会は変わらなければならない」と訴え続けているのである。それは、「このままの状態では、教会は、キリストから託された大切な使命を果たせなくなってしまうし、人々からはいずれ見向きもされなくなってしまうだろう」という、教皇が心の内に抱いている危機感からだ。

 発言の根底にあるものは、教皇の福音に基づく確信である。何よりも教会が大事にしなければならないものは、「教え」よりも「儀式」よりも「教会の権威」よりも、一人ひとりの人間に真心込めて誠実に寄り添わなければならない―という確信である。

 恐らく、その確信は、司祭に叙階されてから、常にスラム街に足を運び、過酷な人生の現実に覆われて悩み苦しむ人々に接することによって培われてきたものに違いない。

 そうした生き方は,「労苦する者、重荷を負う者は、みな私のもとに来なさい。休ませよう」とか、「このいと小さき者の一人でも滅びることは、天の父のみ心ではない」というキリストの言葉のこだまである。

 教皇の視点は、「先に教会ありき」でも「先に教義ありき」でもなく、神の心の中に身を置いた「先に人ありき」なのだ。

 教会共同体の責任者として長年生きてきた経験から、フランシスコ教皇は、教会そのもの中にも人々を教会から遠ざけてしまうものがある、という認識の上に立って、「教会も変わらなければならない」と訴え、呼びかけているのである。そこに、前任者たちとは異なる現教皇の新鮮さと魅力がある。

 教皇の心を生かしているものは、「一人ひとりの人間をかけがえのない存在として尊び、それに手を差し伸べ、支えよう」とする神の心である。そんな神の心によって、教会の営みのすべてが変わって行くことを、教皇は望み求めているのだ。

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2016年11月1日 | カテゴリー :