・Sr.石野の思い出あれこれ ⑰院長から突然、「ローマに修練に行きなさい」とのお達し…

 1951年、着衣してからまだ一年も経たないある日、院長のマエストラ・マリア・イレネから呼ばれて「修練のためにローマに行かせる」というお達しを受けた。

 ローマ!心は踊った。何しろローマはカトリックの中心。総本山の聖ペトロ大聖堂があり、そこには教皇様もいらっしゃる。イタリア人のシスターたちからローマのすばらしさについてはよく聞かされていた。でも、当時は今のように国際化やコミュニケーションが発達しているわけではなかったから、ローマ、イタリアなどは、遠い外国に過ぎなかった。

 長靴の形をしている国、有名なオペラや芸術が豊かな国ということは知っていた。でも、そこにどんな人が住んでいて、どんな生活をしているのか、習慣や文化は?そして、私たちの生活は?知らないことの方が多かった。それらをこの目で実際に見て、手で触れるチャンスが与えられるのだ。

 その年の8月、シスター・M、シスター・S と私の三人は、スカンディナビア航空で羽田空港からローマに向かった。当時、外国への旅行者はまだ少なかった。この少ない海外旅行者もほとんどが船旅で、飛行機での旅行者は珍しかった。私たちの経費などは、すべてフィリピン管区のシスターたちのご好意によるものだと、後で知った。日本からヨーロッパに行く飛行ルートも南周りが一本あるだけで、香港、バンコク、カラチ、ボンベイなど4,5時間ごとに地上に降り立ち、24時間かけてローマに着いた。

 それぞれの空港に着くと景色も人も、何もかもが変わっていて、おもしろかった。香港では漢字が目立った。「公衆電話」と書いてある。中国語の発音は分からなかったけれど、意味はよく通じたので、意味の分かる漢字を探して楽しんだ。カラチの空港では、裾までの長い服を身に着け、目のところだけが網目になっている黒いベールを頭からすっぽり被った人達が、控室に向かう私たちにじっと視線を向けているのを見て、ドキットした。ブルカを身にまとったイスラムの女性たちだった。

 その頃の私はイスラムにつては全く無知だったので、ブルカ姿の彼女たちは私の目には異様に映った。ボンベイの空港では映画でしか見たことのない蛇使いが大きな蛇を操っていた。とぐろを巻いていた大きな蛇が、蛇使いの合図でグーッと上の方に伸びる。珍しかったが、気持ちのよいものではなかったので、急いでその場を通りすぎた。

( 石野澪子=いしの・みおこ=聖パウロ女子修道会修道女)

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2019年11月30日