・Sr.岡のマリアの風(73) ウクライナの人々、ロシアの人々、周辺に住む人々のことを思う

 ウクライナの人々、ロシアの人々、周辺に住む人々の中に苦しむキリスト、傷つくキリストの「肉」を、キリストの叫びを、私たちは感じます。キリストの「体」が引き裂かれているのを感じます。

 二年前、ルーマニアを訪れました。そこには、ロシア正教会、ウクライナ正教会の人々が住んでいました。私たちの修道院があるポーランドにも、たびたび訪れました。そこにも、東方正教会の方々が住んでいました。

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 目に見える戦争は、突然、現れるのではないことを、私たちは知っています。長い年月の憎しみ、恨み、妬み…が、私たちの心をゆがめ、不信、絶望、怒りを噴出させます。

 教皇フランシスコのメッセージは、一貫しています。まず、私たちの心から、憎しみ、恨み、妬みの芽を取り除かなければなりません。そして、それは、私たち人間の努力では、不可能です。真の平和は、創造主、あがない主である、神からの賜物だからです。

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 教皇フランシスコが言われるように、私たちは、常に、誘惑にさらされていることを自覚し、「戦う」必要があります。

 個人主義、自分たちだけの安全、利益を求めて閉じこもり、無関心、あきらめ、絶望の誘惑に陥る誘惑に対して、戦わなければなりません。
私たちの武器は、唯一、神のみ言葉、福音の力です。

 八百年前、アッシジの聖フランシスコは、自分と同じ信仰・信念をもたない人々に対してさえ、「何であれ攻撃や争いを避け、謙虚で兄弟的な『服従』を生きるよう」招きました(『兄弟のみなさん』3)。

 嫌悪や不信、恐怖を煽るメンタリティーに、まず私たち自身が流されないように、目の前の現実、傷つく人々の現実を見つめながら、「目覚めて」警戒していなければなりません。

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 真の平和が「賜物」であるということは、私たちはその賜物に心を開き、賜物を心の中に迎え入れ、それを日々の生活の中でー絶え間ない「普通の日々」の中でー培い、育てていかなければならない、ということでしょう。

 「賜物」は、「受容」を求めます。受け止めるのを止めた瞬間に、それはもはや、賜物ではなくなります。

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 教皇フランシスコの2022年、四旬節メッセージは強力です。それは、ただ一言に要約することができるでしょうー疲れることなく(倦まずたゆまず)善を行うこと(ガラテヤの信徒への手紙6章9節参照)。

 「疲れることなく」「たゆまずに」「飽くことなく」… なぜなら、教皇がしばしば思い起こすように、先ず、神が、疲れることなく私たちを探し求め、赦し、再び起き上がらせてくださるからです。天地創造の初めから今に至るまで、ずっと。

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 私自身の中にも、いつも、自分の身の安全を優先し、周囲の問題から遠ざかり、閉じこもろうとする誘惑があります。

 そんな時、教皇フランシスコの、回勅『兄弟のみなさん』の中の問いかけが心に深く響きます。

 教皇は、「イエス・キリストによって語られたたとえ話」、通常、「善いサマリア人」と呼ばれているたとえ話(ルカ福音書10章25-37節)を引用し、強盗に襲われて負傷し、道端に倒れている人に対峙した三人の人、祭司、レビ人、サマリア人を示しながら、「あなたは、どの人が自分と同じだと思いますか」と問いかけています。

 この質問は鋭く、直接的で決定的です。「あなたはこの中の誰ですか」。

 私たちは、他人に、とりわけいちばんの弱者に対し、無関心でいる誘惑に取り巻かれていることを知る必要があります。いわば、私たちは多くの面で成長を遂げたものの、発展した社会において、最ももろく、弱い人々に寄り添い、世話をし、支えることには無知なのです。

 自分に直接影響するまでは、他に目をやったり、素通りしたり、状況を無視したりすることに、慣れてしまっているのです」(『兄弟のみなさん』64項)。

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 教皇フランシスコの、他の箇所での訴えは、切実に私たちの心に迫ります。

 「どの戦争も必ず、世界を、かつての姿よりもいっそう劣化させます。[…]理屈をこねるのはやめて、傷に触れ、犠牲者のからだに触れようではありませんか。『巻き添え被害』で殺戮された無数の民間人を、しっかり見つめようではありませんか。犠牲者に尋ねようではありませんか。避難民、被爆者や化学兵器の被害者、わが子を亡くした母、手足を失った子や幼少期を奪われた子どもたちに、目を向けようではありませんか。こうした暴力の犠牲者が伝える真実に意識を向け、彼らの目を通して現実を見つめ、開かれた心で彼らの話に耳を傾けようではありませんか」(『兄弟のみなさん』261項)。

 私たちが、自分の殻から抜け出し、顔のない「数」ではなく、名前と顔のある一人ひとりの苦しむ人の目をみつめ、キリストの苦しむ肉に触れるとき初めて、

 「戦争の根底にある悪の深淵に気づけるようになり、平和を選ぶことで『愚直だ』と言われようとも、動じることのない」(同)真のキリストの弟子となるのでしょう。

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 イエスは、十字架の上から、私たちに「母」を賜物としてくださいました。マリアは、「母」の心で、私たちの日々の戦いに寄り添ってくださいます。

 何よりも、個人主義、無関心に簡単に陥ってしまう私自身との戦い…。

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 母であるマリアよ、私たちを見守り、御子キリストに執り成してください。

 私たちが、憎しみや恨み、違いを乗り越えて、人々の傷(キリストの肉の傷)に触れ、ケアするよう招かれている「母」である教会の使命を、日々、生きることができますように。

 御子、主キリストの十字架のもとに「立ち」、主の復活の後、使徒たちの共同体に寄り添った「母」であるあなたの謙虚さ、率直さ、勇気を、私たちが学び、真の平和を心に受け入れ、共に歩んで行くことができますように。

 アーメン。

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女、教皇庁立国際マリアン・アカデミー会員)

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2022年2月28日