・Sr.岡のマリアの風 (59)「神のことばの主日」に想う

復活の主・共同体・聖書

 教皇フランシスコは2019年、「神のことばの主日」に際して出された自発教令『アペルイト・イッリス(Aperuit illis)の冒頭で、私たちキリストを信じる者のアイデンティティーにとって次の三つのことは極めて重要、不可欠(estremamente vitale)である、と言っておられますー復活の主(イエス・キリスト)、共同体(信じる者たちの共同体)、聖書(神のことば)です。この中の一つでも欠ければ、キリスト者としての私たちのアイデンティティーはなくなる、と(1項参照)。

 イメージとしてすぐに浮かぶのは、エルサレムから下ってエマオに向かう弟子たちに、復活の主イエスが静かに寄り添い、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書いてあることを説き明かされ」(ルカ福音書24 章27節)、それを聞いた弟子たちの心は燃えた(32節参照)というルカ福音記者が語るエピソードです。復活の主が、共同体を象徴する二人の弟子たちに現れ、聖書全体を「ご自分について書かれたこと」として説き明かします。

 教皇フランシスコは言っておられます。「キリスト自身が、最初の聖書解釈者だったのです!」と(上記自発教令6項)。

 ここで私たちは、聖書が単なる読書や研究の対象ではなく、また「私の好み」で読み理解されるものでもなく、主の民の書であること(4項参照)、復活の主の霊に導かれて読む時、私たちの心を燃やし、喜びで満たすものであることを、理解し始めます。聖書が語るのは、神の御子であり、人の子であるイエス・キリストのうちに現わされた、ご自分のすべての子らの救いを望む父である神の壮大な愛の歴史です。

 ですから、「聖書は文字を超えて、それが書かれたのと同一の霊において読まれ、かつ解釈されなければ」なりません(『啓示憲章』12項)。言葉を変えて言えば、聖書について学問的に学ぶことは大切ですが、聖霊の働きがなければ、復活の主・共同体・聖書を結び付けている「いのちの流れ」を理解することはできません。

 「聖書における聖霊の役割は本質的」である、と教皇は強調します(8項)。さらに、聖書とエウカリスチア(Eucaristia:聖体、ミサ)の関係を述べながら、「聖霊は、聖書を神の生けるみ御言葉に変える」と言われます。Eucaristiaを「聖体 」と訳すことは可能ですが、文脈から、聖体祭儀(ミサ)も含む、もっと大きな意味が込められているのでしょう。非常に意味深い表現です。

 分析すべき研究の対象として読めば、聖書は過去に書かれた「文字」のままかもしれません。しかし、教会の聖なる典礼の中で、復活の主によって集められた民の共同体の中で、「宣言」され「裂かれ、配られる」時、神の言葉は「生ける神の御言葉」に変えられ、私たちの「今」の生活のための糧となり、私たちを根源から変える力となります。

 ベネディクト十六世は使徒的勧告『主の言葉』の 38項で、「文字」を超えることの必要性について書いておられます。教皇フランシスコは、聖書が 信じる者の生活を養う時、自身を超越する、とされ、『主の言葉』を引用しておられます。大切なので、私たちも聴いてみましょう。

 「聖書のさまざまな意味の間の関係を再発見するうえで、文字から霊への移行を捉えることが不可欠です。この移行は自動的でも自然なものでもありません。むしろ私たちは、文字を乗り越える必要があります」 。

 エマオの弟子たちは、聖書を説き明かす復活の主(まさに生ける神の御言葉)に触れて、閉鎖された悲しみ、失望、絶望から解き放たれ、喜びに満たされ、その喜びをエルサレムの共同体、兄弟たちと分かち合うため急いで帰っていきます。

 ここにも、復活の主・共同体・聖書のダイナミズムがあります。なぜ二人の弟子は喜びに満たされたのでしょうか。聖書が「人間の全体的(インテグラルな)救いに向けられている」からです(8項)。知性だけでなく、私たちの存在、内奥の望み、行い…、すべてを含む救いに向けられているからです。

 ベネディクト十六世は、使徒的勧告『主の言葉』の中で、神の言葉を受け入れる模範であるマリアは「これらのことをすべて心に留めて、思い巡らしていた」(ルカ福音書2章19節、51節参照)ことを思い起こし、書いておられます。

 「マリアは、別々のように思われる出来事、業、事柄を一つにまとめる深い結び目を、神の計画のうちに見出すことができたのです」(87項)。

 私たちも、ナザレのマリアのように、日々の出来事を、神の御言葉に照らし、相反するように見えること、まったく関係ないかのように見えることを根源的に結び、私たちを「救い」へと方向づけている、時と空間を超える神の大きな計画、愛の計画の中で思い起こすことが出来ますように。

 「心に留め、思い巡らす」態度こそが、マリアに、わが子イエスとの30年間の隠れた普通の生活の中で子の使命、十字架、そして復活へと寄り添う力、闇のときでも信じる力を与えたのですから。

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女、教皇庁立国際マリアン・アカデミー会員)

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2021年1月23日