・Sr.岡のマリアの風 (68) ”シノドスの歩み”が始まる前に

 「原稿、書いてください。独り言『でも』いいから…」と、最近、言われるようになった。つまり「独り言さえ 出て来ない期間が、長~く続いているのだろう。水が枯渇したのか、「土」(私)が干からび過ぎて、雨が降ってもはねのけてしまうのか…。でも、原稿書かなきゃ…そんなことを考えていたら、今朝、独り言の芽が出てきた。その芽から出発して書いてみよう。

 教皇フランシスコは、アシジの聖フランシスコの心で、すべての人、さらに、被造界において生けるものすべては「兄弟姉妹」だ、と訴える。

 …で、「そうか!」と思う。「すべての人は兄弟姉妹」が、何で「そうか!」と思うのか、兄弟姉妹だから「兄弟げんか」もあるよね~ということだ。昨日、何でもないことで口げんかになった。いまだに、どうしてそうなったのか、よく分からない。というより、私の何気ない、ひと言が原因だったようだが、それでもなぜ相手が、その私のひと言に反応して怒り出したのか 分からない。

 教皇フランシスコは、「家庭の中で何か言い争いがあったら、寝る前に互いに「ごめんなさい」と言ってください、争ったままで次の日まで持ち越さないでください」と言われる。

 私は、それで、謝ったか、と言うと、謝っていない。「何で~?何の悪気もなく言ったことで、相手が怒ったとしても、どうしてわざわざ『私が』謝らなければならないの?」というのが正直な心。それに、何で怒ったのよ~…という話になると、また「兄弟げんか」が、ぶり返しそうだし。

 これが私の弱さなんだ、とつくづく思う。

 教皇はしばしば言われる。「危機(crisis)」は、私たちにとって必要です。それは嫌でも自分自身の弱さと直面させてくれるから、と。さらに教皇は、問題は、その「危機」から、どのように出るのか、新たな生き方を選び、それを生きる自覚と責任を負う覚悟があるのか、それとも、熱が冷めたらまた元の「居心地
の良い自分の巣」に戻ってしまうのか、と問いかけられる。

 教皇フランシスコは10月10日、バチカンでのミサ聖祭をもって、公式に「シノダリティー」についてのシノドスの歩みを開会する。「シノダリティー」という、分かったような分からないような言葉に、いろいろな説明がなされているが、教皇がリフレインのように繰り返す言葉が、その「こころ」を表しているのだろう。「一緒に歩む」「互いに耳を傾け合う」「率直で謙虚な対話」「違いを豊かさとして迎え入れる」「誰も排斥しない」…

 これらの言葉を聞いていると、一つのイメージが浮かぶ。そしてそれはまさに、開会ミサの前日、10月9日に開かれる「シノダリティー」について考察する集まりの冒頭で宣言される神の言葉( 使徒言行録1章 9~20節)から来るイメージだ。

 イエスの復活、昇天の後、使徒たちが、「先生(イエス)」と最後の過越の食事(最後の晩餐)をした場所、エルサレムの「高間」で 「婦人たちや、イエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、心を合わせてひたすら祈っていた」(同14節)場面。使徒たちと共に祈っているイエスの母。独り言なので許していただきたいが、私の思考は、そこから急に、教皇フランシスコの文書の一節にジャンプする。

 教皇は、イエスの母マリアのさまざまなイメージを示しているが、その中でも特に、すべての人の母、特にキリストを信じるすべての人の母、つまり「教会の母」のイメージが優先的だ、と私には思われる。

 教皇職のモットー(目標、指針)を表しているとも言える、最初の使徒的勧告『福音の喜び』(2013項)からも明らかではないか。それは次のように響く。

 聖霊とともにマリアは民の中に常ににおられます。祈るためにマリアは弟子たちを集め(使徒言行録1章 14節)、聖霊降臨において起きた宣教の爆発的な盛り上がりを可能にしたのです。マリアは、福音をのべ伝える教会の母です。マリアを抜きにしては、新たな福音宣教の精神を十分に理解することはできません(『福音の喜び』284項)。

 司教も、司祭も、修道者も、信徒も「共に歩む」教会。キリストにあがなわれた、同じ兄弟姉妹として。唯一の霊に導かれて歩んでいる兄弟姉妹として。

 冒頭の「兄弟げんか」でも明らかなように、口で言うのは簡単だけど、現実は、かなり難しい。日々の小さな「兄弟げんか」は、私たちに、自分の弱さを受け入れる訓練の機会を差し出してくれるのだろう。

 折しも、10月3日、年間第27主日の、聖ペトロ広場に集まった人々との正午の祈りの中で、その日の福音箇所(マルコ福音書10章 2 ~16節)を黙想しながら、教皇フランシスコは率直に指摘している。

 キリストの弟子は、「小さな者たち」(助けを必要としている人々、お返しが出来ない貧しい人々)の中に主を見出すだけでなく(これは先週、年間第26主日の福音から)、さらに一歩進んで、「自分自身が小さな者であることを認める必要がある」と。

 つまり、「小さな者たちに奉仕する」だけでなく、私たち自身、主の前で、助けを必要としている者、小さな者であることを認めること。

 教皇はさらに言われる。私たち自身の小ささを見つめ、それを受け入れるとき、まさに「そこに」 私たちはイエスを見出すのです、と。私たちは、戦いや弱さの中で成長する。

 なぜなら、私たちの弱さこそが、神に心を開く原動力になるから。そして神に心を開く時、神の心で、人々に心を開くことが出来るようになるから。

 「問題を前にして自分自身が小さな者であると感じるとき、十字架や病気の前に小さな者であると感じるとき、労苦や孤独を経験するとき、失望してはなりません」、と教皇は言われる。まさにそれは、表面的な生き方の「仮面が剥がれるとき」であるから。「私たちの根源的な弱さ」―つまり、土の塵に過ぎない人間であること―が現れてくるときであるから。

 人間の根源的な弱さは「私たちの共通の土台、私たちの宝です。なぜなら 神と一緒なら、弱さ(脆さ)は障害物ではなく、機会だからです」。教皇はここで、 このように祈るのは善いことでしょう、と言って、ある祈り方を勧められる。

 「主よ、私の弱さ(脆さ)を見つめてください…」。この後、主の前に自分の弱さを列挙する。これが、神の前での善い態度です、と。

 だから、今日の私の祈り。

 「主よ、私の弱さを見つめてください。よく考えずに思いやりのない言葉を投げてしまうこと。それで傷つくのは相手が悪いと思ってしまうこと。相手の傷を感じることを恐れること。…つまり、私の心地よい巣の中に閉じこもりたくなること…」。

 教皇フランシスコの結びの言葉。

 「私たちが小さな者であるとき、私たちは、神のやさしさ(tenerezza)をより感じます。このやさしさは、私たちに平和を与え、私たちを成長させます。[…]このようにして私たちは大きくなります(成長します)。自分自身の自己満足という幻想のうぬぼれにおいてではなく―それは誰も成長させません―、御父にあらゆる希望を置くという強さにおいて。まさに小さな者たちがするように」。

 「小さな者の道」を示した、幼いイエスの聖テレジアの記念で始まった10月。主のあがないの業を見つめながら、主の慈しみに私たちの弱さを謙虚に委ねるロザリオの祈り。自分の小ささ、弱さを認めることによって、互いを兄弟姉妹として受け入れ、私たちのただ中におられる主に信頼して一緒に進む、神の民の歩み。

 今朝の独り言の「芽」は、けっこういろいろな思いを表に出してくれました。

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女、教皇庁立国際マリアン・アカデミー会員)

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2021年10月6日