・Sr.岡のマリアの風 (62)聖ヨセフの「並外れた普通性」~世界召命の日メッセージから~

    教皇フランシスコは3月19日、聖ヨセフの祭日に、今年2021年の世界召命祈願の日のためのメッセージを出しました。(世界召命祈願の日は復活節第四主日[善き牧者の主日]で、今年は4月25日に当たります)

  メッセージの中で教皇は、聖ヨセフの姿を見つめながら、キリスト者の召命、特に司祭と奉献生活者の召命について語っています。(以下、教皇の言葉は試訳です)

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 最初に教皇は、聖ヨセフが、周りの人の目には何の特別な才能も持っていない、身近な「普通の」人でありながら、神の目には「際立って」いたことを強調しています。

 教皇フランシスコは、「偉大な普通性」、普通の日々の中で、神の目には並外れたことを成し遂げている「身近な、近所の聖人たち」について、好んで話します。ユダヤ教・キリスト教の伝統の中で、信仰の父祖アブラハムから始まって、主はご自分の夢の実現のために、夢も弱さも持つ「普通の人」を選び、協力を求めます。

 世の人々の目には、聖家族さえも「普通の家族」だったでしょう。母マリア、ヨセフ、そしてイエスご自身さえも、普通の身近な存在だったでしょう。彼ら自身も目立とうとはしませんでした。福音書が、イエスのナザレでの三十年間についてほとんど何も語っていないこと、イエスが公生活を始めたときも、ナザレの人々はイエスが「ヨセフの子ではないか、大工ではないか…」と言って躓いたことは、ひじょうに示唆的です。

 「聖ヨセフは、驚かせるようなことはなく、特別なカリスマをもっていたわけでも、出会った人々の目に特別に映ったわけでもありません。有名でもなく、また自分に注目を集めることもしませんでした。福音書には彼の言葉は一つも記されていません。それにもかかわらず、聖ヨセフは、普通の生活の中で、神の目には並外れたことを成し遂げたのです」。

 彼は私たちに「柔和さ」をもって会いに来る「身近な聖人」でありながら、同時に、彼の「強い証し」は私たちの歩みを導くことが出来るだろう、と教皇は述べています。

 神は心の中を見ます。末っ子であったダビデの召命のときのように。そして神は聖ヨセフの中に「父の心」を認めました。「毎日の生活の中で命を生み、再生することの出来る」心。

 教皇は、主はまさに、「父の心」「母の心」を私たちの中に形造ることを望んでいる、と言われます。それは「開かれた心、大きな熱意を持つことが出来、自分自身を惜しみなく賜物として与え、苦悩を慰めることにおいて慈しみ深く、希望を強めることが出来る堅固な心」です。だから今日、「パンデミックにもよる、脆弱性と苦しみに刻印された時代において、特に、司祭職と奉献生活が必要」である、と。

 教皇フランシスコのロジック(理論)の中で、困難な世にあって「父の心」「母の心」―それは何よりも先ず、見返りを求めない「慈しみの心」でしょう―を持つことが求められていて、だからこそ、司祭職、奉献生活が必要だ、ということになります。そしてその模範を、聖ヨセフの中に見ることが出来る、と。

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 それでは、すべてのキリスト者、特に司祭、奉献生活者の模範となる、聖ヨセフの「父の心」はどのように現わされたのでしょうか。教皇はそれをすでに使徒的書簡『父の心で』(2020年12月8日)の中で七つの特徴の中で考察していますが、ここでは「世界召命の日メッセージ」で語られたことを見てみましょう。教皇は三つのキーワードを差し出しています:夢、奉仕、忠実さ。

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 第一に「夢」:すべての人は人生において自己実現を夢見ます、と教皇は指摘しています。さまざまな夢があるでしょう。けれど「もし人々に一言で人生の夢を表すよう問いかけるなら、その答えを想像するのは難しくありません:それは愛です」。「愛こそが人生に意味を与えます。なぜなら人生の神秘を明らかにするからです」。

 しかしその愛は、教皇フランシスコ自身、たびたび強調するように、所有する愛、相手を奴隷にする愛ではなく(それは愛でさえありません)、「自分を賜物として与える愛」です。「実際、命は、与えて初めて持つことが出来ます。賜物として自らを差し出して初めて、真に所有することが出来ます」。個人主義的メンタリティがあらゆるところに(教会の中にも)浸透している世の中で、理屈ではなく、相手がそれをどう受け取るかに関わらず、自らを賜物として与えることこそは、キリストに従う者の真の証しでしょう。

 このことについて聖ヨセフは多くのことを私たちに教えている、と教皇は言われます。「なぜならヨセフは、神が彼にインスピレーションを与えた様々な夢を通して、自分の存在を賜物としたからです」。

 福音書は四つの夢について語っています(マタイ福音書1章20節;2章13,19,22節)。「それらは神の呼びかけでしたが、簡単に受け入れることの出来るものではありませんでした。それぞれの夢の後、ヨセフは自分の計画を変え、自分を危険にさらさなければなりませんでした。神の神秘的な計画に合わせるために自分の計画を放棄しながら」。このようにして彼は、底の底まで、徹底的に、自分を神に委ねました。

 自分の人生を変える決心をするほどまで、しかも迷うことなく従うまでに夢を信じることができるのか、という問いかけに、それは夢自身が現実よりも重要だったということではなく(現実の生活は常に「夢」よりも大切です)、「彼の心が神に向けられていたから、すでに神に向かって開かれていたからです」と教皇は考察します。目覚めている「内的まなざし」には、神の声を見分けるのには小さなサインで十分だった、と。

 私たちは時に、聖ヨセフの「夢」を過大評価することがあります。しかし重要なのは、その奥にある真実、つまりヨセフの心がすでに神の声を聞く準備が出来ていた、神の小さな印をも見逃すことのない「内的まなざし」を持っていた、ということでしょう。ヨセフは夢を見たから神に従った、と言うより、夢の中に神のみ心を感じ取る心の準備が出来ていたのです。

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 そしてそれは「私たちの召命」にも言えます、と教皇は思い起こします。ここでも教皇フランシスコの特徴的な話し方が続きます。「神は、私たちの自由に圧力をかけながら、人目を引く(派手な)やり方でご自分を現すことを好みません。神は柔和さをもってご自分の計画を私たちに伝えます。まばゆく輝くヴィジョンを見せるのではなく、繊細さをもって私たちの内面に向き合います。ご自分を私たちに身近な者とし、私たちの考えや感情を通して私たちに語り掛けます」。

 普通さ、身近さ、柔和さ、繊細さ…すべて、私たちの弱さをすべて知りながら、私たちを真の幸いへと導く、父の慈しみ深い心から来るものでしょう。

 このようにして神は、聖ヨセフにしたように、「私たちにより高く驚くべき(人生の)到着点を提示する」と教皇は考察し、『父の心で』の中で書いているように、どのようにこれらの「夢」がヨセフを「想像したこともなかった冒険」に向かわせたかを描写し、「これらのすべての動転の中で、神のみ心に従うという勇気が、勝利をもたらした」と述べています。

 ここからまた、教皇フランシスコ特有の「言語」が続きます。

 「同じことが(私たちの)召命の中にも起こります。神の呼びかけはいつも、出て行くように、自分を賜物として与えるように、さらに向こうに行くように促します。自分の計画や快適さをわきに置いて、恵みに信頼して身をまかせることによってのみ、人は真に神に『はい』と言うのです」。

 教皇は、あらゆる真の「はい」が実りを結ぶことを強調します。なぜならその「はい」をもって、私たちは「より大きな計画に参与する」からです。私たちの視野は狭いので、その計画の一部しか垣間見ることができませんが、「芸術家」である神は、その全体を知っていて前に進めます。一人ひとりの人生を「傑作」にするために。

 さらに、聖ヨセフの受け入れる態度は決して受身ではなく「積極的」です。彼は「決してあきらめたり降参したりしません」。「ヨセフは、受け身に甘んじる人ではありません。勇敢で強い主人公です」(『父の心で』4項)。この意味で聖ヨセフは、「神の計画を受け入れる模範的なイコン(姿)」です。

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 私たち一人ひとりの召命に、聖ヨセフの姿が示唆する第二のキーワード:「奉仕」。

 福音書から、ヨセフが全生涯を、自分のためではなく、他の人々のために生きたことが浮かび上がります。教皇は、神の民が彼を「最も貞潔な夫(castissimo sposo)」と呼び求めていることを思い起こし、それはヨセフの、「何も自分自身のために取っておくことなく愛する能力」を明らかにしている、と述べています。

 「あらゆる所有から愛を解放しながら、実際彼は、さらに深い奉仕へと自らを開きます。彼の愛に満ちたケア(気遣い)は世代を超え、思いやりのある守護は、彼を教会の保護者としました。彼はまた善い死の保護者でもあります。命(人生)の自己犠牲的な意味(ilsenso oblativo)を具体化することを知っていたからです」。

 けれど、と教皇は言います、「彼の奉仕、彼の犠牲は、さらに大きい愛によって支えられていたからこそ可能だった」と。そしてここで、成熟した召命の「美しさ」を暗示している『父の心で』の7項を引用しています。

 「真の召命はどれも、単なる犠牲ではなく、その成熟である自己贈与から生まれます。司祭職や奉献生活においても、こうした種類の成熟が求められています。召命は、それが結婚生活であれ、独身生活であれ、貞潔生活であれ、犠牲の論理だけにとどまり、自己贈与という成熟にまで至らないならば、不幸、悲しみ、わだかまりの表れになる恐れがあります」。

 教皇は、「書簡」にも書いているように、聖ヨセフの「奉仕」が決して理想に留まらず、「日々の生活のルール」となっていたことを強調します。つまりヨセフは「人生が思い通りにならなくても、くじけない人の態度」と、「奉仕するために生きる人の寛容さ(献身)(disponibilità)」をもって「さまざまな状況に対応しました」。このようにして彼は、多くの、そして予期しない旅を受け入れました。「その都度、新しい状況に対応し、起きたことに嘆く(文句を言う)ことなく、状況を正すために手を差し出すことを厭わずに」。

 教皇は、ヨセフの、この具体的な状況の中で奉仕のために差し伸べた手が、「地上の御子に対する、天の御父の『差し伸べられた手』であったと言うことが出来るでしょう」と言っています。ですからヨセフは、奉仕のために呼ばれたすべての人の模範です。つまり、「ご自分の子らのための、御父の働きの手となること」。

 こういうわけで、イエスの保護者、教会の保護者である聖ヨセフを「さまざまな召命の保護者」と呼びたい、と教皇は言われます。ヨセフの「注意深く思いやりのあるケアは、成功した召命のしるし」、「神の愛によって触れられた命(人生)の証し」だからです。

 教皇フランシスコの「言語」で言えば、ヨセフは、自分の野心を追い求めたり、ノスタルジー(郷愁)によって麻痺させられるに任せることなく、「主が、教会を通して、私たちに託してくださったことをケアする」素晴らしい模範です。もし私たちがそのようにするなら、「その時、神は私たちの上に、ご自分の霊、ご自分の創造性を注いでくださり、ヨセフの中にしたように、驚くべきわざを行われます」。

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 三番目のキーワード:日常の中での「忠実さ」。

 これは、教皇フランシスコが、現代の私たちへの聖ヨセフの姿の意味として、特に強調することでもあるでしょう。普通の日々の、忍耐、沈黙、信頼に満ちた忠実さ。

 「ヨセフは『正しい人』(マタイ福音書1章19節)です。日々の勤勉な沈黙の中で、神とその計画に忠実であることを貫きました。特に困難な時には『すべてのことを考える』ことに身を置きました(20節参照)」。

 聖ヨセフは考え、思い巡らします。「焦りに支配されず、軽率な決断の誘惑に負けず、本能に従わず、刹那的に生きることをせず、すべてを忍耐強く耕し(育て)ました。彼は、偉大な選択に継続的に参与することによってのみ、存在が形造られることを知っていました。それは大工という謙虚な職業を遂行する際の、穏やかで継続的な労苦に対応しています(マタイ福音書13章55節参照)」。

 実にヨセフは「召命が、人生のように、日々の忠実さを通してのみ成熟する」ことを証ししているのです。

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 ヨセフの忠実さは、彼自身の徳である前に、「神の忠実さ」に照らされて育ったものであると、教皇は考察します。彼が夢の中で最初に聞いた言葉、「ダビデの子ヨセフ、恐れるな」(マタイ福音書1章20節)は、恐れることはない、神はご自分の計画に忠実であるから、という招きです。

 教皇は呼びかけます。「恐れることはない」という言葉は、主が、「愛する姉妹、あなたにも、愛する兄弟、あなたにも」向けています、「不確かさや躊躇の中であっても、主に人生を捧げようという望みを、もはや先延ばしすることはできないと感じるときに」。

 教皇は続けます。

 「この言葉は、あなたが、自分のいるところで、もしかしたら試練や無理解の中で、日々主のみ心に従うために戦っているときに、主があなたに繰り返す言葉です。この言葉は、あなたが、召命の歩みの中で最初の愛に戻るとき、再び見出す言葉です。この言葉は、聖ヨセフのように、日々の忠実さにおいて、人生をかけて主に『はい』と言う人に、繰り返し(リフレイン)のように寄り添う言葉です」。

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 この日々の忠実さこそ喜びの秘密です、と教皇は強調します。「典礼の賛歌が歌うように、ナザレの家には『澄み切った(明瞭な)喜び』がありました」。

 「喜び」ー教皇フランシスコの教導職で何度も繰り返されるこの言葉で、メッセージは締めくくられます。

 「それは、素朴さの日常的で透明な喜び、大切なもの―神と隣人への忠実な近しさ―を保つ人が経験する喜びです。同じような素朴で輝く雰囲気、簡素で希望に満ちた雰囲気が、私たちの神学校、修道会、教区の家々に浸透していたら、どんなに美しいことでしょうか。

 それは私があなた方、兄弟姉妹たちに願う喜びです。あなた方は惜しみなく、神を人生の『夢』とし、自分に託された兄弟姉妹の中で神に『奉仕』しています。つかの間の選択や、喜びを残さずに消えてしまう感情によって刻印された時代において、それ自身すでに証しである『忠実さ』を通して。召命の保護者である聖ヨセフが、父の心であなた方に寄り添ってくださいますように」。

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 聖ヨセフ特別聖年、始まったばかりの家庭の年に、教皇フランシスコが繰り返す、神の目に尊い「並外れた普通性」の価値を悟り生きる勇気を、聖霊に願いたいと思います。自分の前にラッパを鳴らさず、日々の生活の中で忍耐強く実を結んでいく、主への絶え間ない「はい」を生きることができますように。

(聖書の引用は「聖書協会・共同訳」を使用しました=「カトリック・あい」)

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2021年3月31日