・Sr.岡のマリアの風 (52)教皇フランシスコの「祈り」についてのカテキズム

 パパ・フランシスコが、水曜日の一般謁見の中で、「真福八端」についてのカテキズムを終え、「祈り」(注:「カトリック・あい」では「祈りの神秘」)についてのカテキズムを続けれおられる。

 「神のことば」からの出発:聞く(受け入れる)―答える-動き出す「アクション(行動)の人」と表現されることの多いフランシスコ教皇だが、彼にとってキリスト者の「行動」とは、言うならば、つねに先に動く神の「行動」への「こたえ」である、と言えるかもしれない。

 先ず、始めに神の「ことば」があり、そこから信じる者の「こたえ」が生まれる。ユダヤ教徒、キリスト教徒が「しつこく」祈ることができるのは、神のことばは必ず実現する、と、神の忠実さへの絶対的信頼があるからだ。先人たちはそれを、身をもって証しし、わたしたちに伝えてくれた。だからわたしたちは、時に、聞いてもらえないように思えても「祈り続ける」ことが出来る。

 神が、今、わたしに、この現場で何を求めているのかを知るための「マニュアル」は存在しない。だからわたしたちは、祈りの中で、神と「対話」し、時に「戦う」ことを学ぶ。「主よ、あなたがお望みのことは何ですか?」と、十回、百回、千回、繰り返す。そのような対話の中で、わたしたちの中の、いわば「神(かみ)感性」というものが研ぎ澄まされていくのだろう。

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 毎回、バチカン放送日本語部門HPで全訳(注)が出ているので、試訳の苦労なしに、修道院の姉妹たちと分かち合える。訳してくださっている方々、ありがとうございます!(https://www.vaticannews.va/ja/pope-francis/papal-audience.html)

 この「カテキズム」の中で、キリストを「信じる者」としての、パパ・フランシスコ自身の「祈り」の「気合」を感じるのは、わたしだけだろうか?

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 毎週水曜日の一般謁見におけるカテキズムや、主日の正午の祈りは、翌日にはすでに多くの言語で翻訳され、聖座のHPにアップされている。この二つの機会は、教皇にとって、全世界に向けてメッセージ、アピールを発する常設の機会、場である。

 カテキズムも正午の祈りでの話も、必ず聖書の言葉から出発する。つまり「みことば」から出発して、教皇は、そのみことばが、今、わたしたちに、この世界に、この状況の中で、何を語っているのかを識別する。ユダヤ教・キリスト教の「師」たちは、二千年、三千年…、ずっとこのようにして、彼らの時代の信徒たちに、みことばのメッセージをかみ砕き、解釈し、伝えてきた。

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 ぼ~っと聞いていれば、「パパさまの話、いい話やったね~」…で終わってしまう。でも、それではもったいない。

 特に、毎週の一般謁見の中で行われる「カテキズム」は、教皇自身がテーマを選ぶ。言い換えれば、一般謁見のカテキズムのテーマは、それ自身、今、教皇の心にあることを反映している。それは、教皇が教会に、わたしたちに、一番必要だと思っているテーマだと言えるだろう。

 教皇メッセージは、ある意味、教皇の霊的「戦略(strategy)」だ、とわたしは思っている。定期的に毎週行われるカテキズム、正午の祈りでの話を追いながら、その「戦略」の大きな枠組みを知ることは大切だろう。

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 さて、「祈り」についてのカテキズム。

 まず「もし、わたしがカテキズムをしなければならないとしたら?」と考えてみよう。何を伝えたいか?どういう構造で、どういう順番でそれを伝えるか?「祈り」という、もう分かっている、と思っていたことを、人に伝える、教える、となると、結構、難しいことが分かる。

 「わたしだったら」、祈りについてのカテキズムをどう組み立てるか、と、自分の頭を使って考えた後で、教皇フランシスコのメソッド(方法論)を見ると、パパがわたしたちに何が言いたいのかが、より見えてくるだろう。

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 「カテキズム」の詳細はバチカン放送HPの全訳に任せて、ここでは、六回までのカテキズムで、わたしが、これこそパパ・フランシスコの心にあると感じ取ったことを分かち合いたい。

 ちなみに、今までのテーマは:(1)祈りの神秘(5月6日)、(2)キリスト者の祈り(5月13日)、(3)創造の神秘(5月20日)、(4)正しい人々の祈り(5月27日)、(5)アブラハムの祈り(6月3日)、(6)ヤコブの祈り(6月10日)。

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 教皇が、第一回目の「祈りの神秘」(5月6日)についてのカテキズムを、目の見えない「バルティマイ」の「祈り」(マルコ福音書10章46-52節参照)をもって始めたのは、わたしにとってひじょうに興味深かった。これこそ、パパ・フランシスコの祈りだ!と思ったから。

 原語のイタリア語でのメッセージの響きは、日本語に訳されたものよりも、さらに、ひじょうに強烈だ。

 「叫び」としての祈り。人間の内奥にある、自分の力では満たすことが出来ない渇望から生まれる「叫び」。創造主、救い主だけが可能にする、満ち溢れた「幸い」への、人間の歩み。

 なぜ、「祈りの神秘」についてのカテキズムで、バルティマイなのか?教皇フランシスコの、バルティマイの「叫び」についての描写は、ひじょうに生き生きとしている。(以下、試訳を交えながら)

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 目が見えなくて、道端で物乞いをしていたバルティマイは、ある日、イエスがそこを通るだろうと人々が言っているのを聞いた(目が見えないので、耳はひじょうに敏感である)。

 そこでバルティマイは「待ち伏せた(待ち構えた:si apposta)」。彼は、イエスと出会うためなら、何でもする覚悟だった。

 バルティマイは、目が見えない。イエスがどこにいるのか、見ることは出来ない。でも彼は「聞く」-人々の騒ぎ方から、ある時点で、イエスが近づいて来ているのを「感じる」-。

 そして何をするか? これがバルティマイの特徴だ。「叫ぶ!」。叫んで、叫んで、叫び続ける。

 声だけが、バルティマイがもっていた唯一の「武器」だった。だから、叫ぶ。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください!」(47節)。このようにして、バルティマイは「福音(善い知らせ)」の中に名前を留める:「あらん限りの力で叫ぶ声」として。

 バルティマイが叫び続けるのを、人々は「迷惑」「うるさい」「無礼だ」と思った。多くの人が彼を叱り、黙らせようとした。でも、バルティマイは黙らない。それどころか、ますます大声で叫ぶ:「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください!」

 この「すばらしい頑固さ」こそ、神の心の扉を叩き続ける人のものだ、とパパは言う。彼は、叫び、戸を叩く。

 「ダビデの子」という名称は、聖書の中で「メシア(救い主)」を意味する。すべての人から軽蔑されていたバルティマイの口から、イエスがメシアだ、という信仰宣言が発せられた、と教皇は強調する。

 そして、何が起こったか?

 イエスは、バルティマイの叫びを「聞いた」。彼の「祈り」は、イエスの心、神の心に触れた。そして、彼に、救いの扉が開かれた。イエスはバルティマイを呼ばせ、バルティマイは躍り上がって立ち上がり、最初、彼を黙らせようとした人たちは、今、彼をイエスのもとに連れて行く。

 イエスはバルティマイに語りかけ、彼が何を望んでいるのかを尋ねる(これは大切です、とパパは言う)。その時、「叫び」は「願い」になる:「主よ、わたしが再び見えるようになることです!」。イエスは彼に言う:「行きなさい、あなたの信仰があなたを救った」(原語テキストで強調形)(52節)。イエスは、この、貧しく、無防備で、軽蔑されていた人の中に、神の憐みと力を引き付ける、信仰の力を認めた。

 信仰とは、天に向かって上げられた二つの「手」と、救いの賜物を嘆願するために叫ぶ「声」をもっている、とパパは言う。また、祈りは「土」から生まれる、とパパは指摘する。「土」は、ラテン語で「humus」であり、ここから「humble(謙遜な、卑しい)」、「humility(謙遜、身分の卑しさ)」が来る。

 祈りは、わたしたちの不確実さ(不安定さ)から来る。祈りは、わたしたちの絶え間ない神への渇望から来る。

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 人々が何と言おうと、イエスに向かって叫び続ける、戸を叩き続けるバルティマイ。このバルティマイと共に、わたしたちは「祈り」のカテキズムを始めましょう、とパパは招く。

 とても、パパ・フランシスコらしい、と、わたしは思った。バルティマイは、「欠けている存在」としての人間、わたしたち人間の象徴と言えるだろう。バルティマイは、実際に「目が見えない」から、「何が欠けているか」を、明確に自覚し、知っていた。だから、イエスに「何が欲しいのか」と言われ、迷うことなく「目が見えるようになることです!」と答えた。

 「ダビデの子、イエスよ!」と叫ぶ彼は、イエスがメシア(救い主)であり、「欠けている自分」を満たすことが出来る、と信じ、信頼する。だから、人が何と言おうと、叫び続ける。バルティマイは、叫ぶ中で、イエスにだけ、神にだけ向かっている。パパ・フランシスコにとって、これが「祈り」の本質なのだろう。

 わたしが、今いる現場で、この状況で、出口がないように見える「闇」の中で(バルティマイの状態)、叫び続ける、戸を叩き続ける。そして、神に「こたえ方」を委ねる。

 神が、わたしにとって最もふさわしい時に、最もふさわしい方法で(ひじょうにしばしば、わたしにとって都合のよい方法を超えた方法で)、わたしの最高の善のために(ひじょうにしばしば、そのときは、わたしにとっての善とは見えない)、神はこたえてくださると、信じ続ける。

叫び続ける―信じ続ける―歩み続ける

 神は忠実な方であり、こんなちっぽけなわたしにも、ご自分の救いの計画の実現のためのモザイクの一片を託してくださっていることを信じ続ける。神は、まったくの「善・美・真理」であり、神の「善・美・真理」は、唯一の現実「愛」のことだと信じ続ける。この信頼の上に、一歩、また一歩と、前に歩み続ける。神が「愛」であることへの信頼が、前に進み続けるための「力」となる。そこから、信じる者の、積極的な動きが生まれる。

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 このライン上で、六回目の、神と「戦う」ヤコブは、まさに、信頼するから戦う、信じる者の姿だ(創世記32章23-33節参照)。

 教皇フランシスコの語り口は、ここでも生き生きとしている。それまで「自信満々」、うまく立ち回りながら富を築いてきたヤコブ。しかし今、彼は、自分がかつてだまして、長子の権利を奪い取った兄エサウと出会う前の夜、見知らぬ土地に独りでいる。彼の思いは、不安と恐れに満ちている。そして…夜の闇が深くなったとき、突然、見知らぬ人が彼をつかまえ、彼と戦った。聖書の伝統は、この「見知らぬ人」を、神とも、神が遣わした天使とも解釈している。

 教皇フランシスコは、この「戦い」を通して、神はヤコブを、その真実の姿に連れ戻した、という。それは、震え、恐れている、限界のある被造物、という真理だ。

 教皇はさらに指摘する。ここでヤコブは、彼の人生の中で初めて、神に、富や成功ではなく、はかなさ、無力さ、自分の罪の他は、何も差し出すものがない状態に置かれる。そして、まさに「この」(と、強調形)ヤコブが、神から祝福を受け取り、この祝福をもって、足を引きずりながら「約束の地」に入る。もろく、はかない状態で、しかし「新しい心」をもって。

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 バルティマイから始まり、(現時点で)ヤコブまでの、「祈る者」の姿。それは、わたしたちの姿である、と、毎回、教皇は繰り返す。

 たとえば…わたしたちはみな、ヤコブのように、暗い夜の中での神との出会いがある。わたしたちの人生の中の暗い闇、罪の闇、方向を見失った闇。まさにそこで、いつも、神との出会いがある。

 神は、わたしたちがまったく予期しなかった時、まったく独りぼっちでいる時、わたしたちを驚かすだろう。まさにその闇の夜、見知らぬ人と戦いながら、わたしたちは、貧しくみじめな存在であることに気づくだろう。

 わたしたちが「貧しくみじめな者」であると感じるとき、恐れることはありません、と教皇は言う。なぜならそのときこそ、神はわたしたちの心を変え、神によって変えられるにまかせる人のための祝福を、わたしたちに与えるだろうから。

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 これこそ、教皇フランシスコが強調する、神によって変えられるに任せなさいという招きである。「主よ、あなたはわたしを知っています。わたしを変えてください」…パパ・フランシスコがわたしたちに勧める祈りである。

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 ちなみに、ユダヤ教伝統の中で、アブラハムは「始める、創造的」祈りを象徴し、イサクは、日常の中で静かに「継続する」祈り、ヤコブは、予期しない神との遭遇の中で、神と「戦う」祈りを象徴している、とラビJonathan Sacksは書いている。

 自分がどのタイプ、というより、わたしたち一人一人、人生の中で、これらの要素を経験する。

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 今のわたしは、ヤコブの「戦う」祈りの時だと思っている。少し飛躍すると、わたしにとって、ナザレのマリア、イエスの母の祈りも、「戦う」祈りだ。

 「えっ?」と言われそうだが(特に中世の宗教画の中で、マリアは美しい服を着て、静かに厳かに祈っているイメージが強いし…)、福音書で語られるマリアさの姿は、まさに、神と「戦う」、信じる者の姿だ(少なくとも、わたしにとっては)。

 パパ・フランシスコが強調するように、「信頼」できなければ、神と戦うことは出来ない。神のお告げを運んだ天使に、マリアは質問する「どうして、そんなことがありえるでしょう?」-どうやったら、あなたの夢の実現のために、わたしが協力することが出来るでしょうか?-(ルカ1・34参照)。

 三日間、行方不明になった12歳のわが子イエスに、質問する:「どうして、こんなことをしたのですか?」-わたしたちはこんなに心配して探したのだから、理由を教えてください―(ルカ2・48参照)。

 カナの婚礼で、いわゆる「公生活」を始めたばかりのイエスに「彼ら(新郎新婦)にぶどう酒がなくなりました」と告げる―あなたが望むことを行ってください。わたしは準備が出来ています―(ヨハネ2・3参照)。

 どの場合でも、マリアは、人間として期待したような答えは得られない。しかし、その「神のやり方」を、今度は「黙して」受け入れ、思い巡らす。マリアは、それ以上、無駄口をたたかない。マリアの「戦い」の祈りは、さらにより内面的になっていく。

 その「戦い」の頂点は、十字架につけられた子イエスの傍らに立つときだ。もはや、母は語らない(ヨハネ福音書19章25節参照)。究極の戦いの祈りは、母の「心」の中の戦いだ。その戦いのさなかで、マリアは「教会(Ecclesia:神によって召集された集会)」になっていく。教会の伝統は、十字架上のイエス(花婿)の、槍で貫かれ、開かれたわき腹から、十字架のもとにたたずむマリアに象徴された教会(花嫁)が生まれた、と教える。

 新約聖書は、最後に、生まれつつある教会の中で祈る、イエスの母マリアの姿を伝えている(使徒言行録1章14節参照)。

 このように戦ったからこそ、マリアは今、天で、わたしたちのあらゆる戦い、困難、闇を理解し、わたしたちが信頼してイエスに従うよう導く。マリアは人間であるからこそ、偉大なのだ。地上の生活において、神のわざがすべて理解できたわけではなく、それでも信頼して戦いぬいたからこそ、偉大なのだ、とわたしは思う。だから、すべての時代の人が、マリアをたたえる。一人の人間として、一人の女性として、信じ続けたから。信仰の道を歩み続けたから…。

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 パパは、次は、どんな人物を「祈る者」の模範として示してくれるのだろう。毎週、わくわくしている。

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

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 注:「カトリック・あい」より=「カトリック・あい」では、バチカン放送日本語課の訳文をもとに、原文英語訳も参照して、聖書の引用箇所は、日本語訳として最も優れている「聖書協会・共同訳」に改め、表記も当用漢字表などをもとに修正、編集したうえ、これまでの教皇のカテケーシス全てを掲載しています。

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2020年6月30日